ことばで語り直すことが生きていくということ、それを見守るということ@「臨床とことば」より

人は自分を語りながら大人になる。
それが生きていくということ。
人生のときどきによって語ることばを変更し言い直しつつ大人になる。
それが成長するということだろう。
その都度、自分とはこういう人間なのだと納得しながら語ることになる。
でもまあ、いつまでたっても、これだという自分が決まるわけでもない。
正しく言い直し続けることができればいいんだけど、そうはならない。
ずっと正しく語るのは、なかなか困難なことで、やはり自分に嘘をついたりしてしまうんだ。
自分だけで生きてるわけでなく、偶然放り込まれた社会のなかで他者と共に生きているわけだしね。
社会や他者と自分との関係は、思いの外複雑なんだよな。
だからいつのまにか、訳の解らないことを放棄したり、安易な方向へ逃避したりしてさ。
つい、そんな嘘の騙りへ走ってしまう。
それが重なっていくと何がほんとうで何が嘘だか解らなくなる。
嘘に嘘を重ねる間にそんな自分の姿が、今の自分になってしまうわけだな。
そんな自分を騙り語るのは実に苦しくどこかで無理がくる。
苦しさを誤魔化しきれなくなる。
嘘は見抜かれる。
嘘と気づいても、そのまま誤魔化しながら生きられる人はいい。
でも自分にはできそうもない。
だって苦しいんだから。
自分の嘘を自覚しそうになるけど語り直せない自分がいる。
自らの人生が生きにくくなる。
ときに自殺したくなるかもしれない。
自分の嘘を素直に認めてしまえばいいのだけどね。
ここまでで繰り返された語りは凝り固まり簡単に変えることができない。
だって自分で何度も語り直して、さらに変更してここに至っているわけだし。
すでに心も身体も言葉も強張ってしまっている。
強張った自分の耳では自分の言葉を正しく聴くことができない。
そこで他者の耳が必要になってくる。
どんな他者でもいいわけではない。
自分に「正しく」向き合ってくれる他者である。
「正しい」他者は、その者の言葉によるアドバイスなどしない。
自分が自らの語り直しで変わっていこうとすることを見守ることのできる他者である。
やっと語り直しはじめたことを手伝ったり、迎えにいこうとはしない。
迎えにこられたりしようものなら、せっかく語り直すことができそうなきっかけを根こそぎ持っていかれてしまう。
必要なのは黙って肯定しながら聴き続けることができる他者である。
そうした他者のなかでなら、自分は強張りをほどかれていく。
理由はわからないけど、ふと、自ら納得する生き方を自らに見出す。
それは他者の力ではなく、自らの裡からの力ではあるのだけど、その他者が必要だったことに間違いはない。
そして、強張りを大きく変換して語り直すことができる。
ただ、他者にしても、ただ見守り聴き続けることは簡単なことではない。
焦りもでるし、いつ発芽するかわからない芽を待ち続ける忍耐もいる。
それに、現代人は「こうすればこうなる」的なハッキリしたやり方が好きなんだ。こう聴けば結果に繋がるみたいなね。
だから、じっと共にいることは難しいわけだ。
ここにも罠がある。
他者が他者自身が望む答えを用意する。
自分がそうした他者が肯定するだろう答えを察知して、そこへ向かってしまうことである。
それは自ら発芽したものではなく、他者の語りに寄せていっているにすぎない。
そうじゃなくて、意図せず双方が自然に交差するポイントを待つのである。


※もう深すぎて目がクラクラする「臨床とことば」という本の鷲田清一「〈語る/聴く〉のなかの共犯関係」という段落を、自分に納得できるように言い直してみた。
とっても深い箇所だけど、なかなか難しい箇所だったので、理解のために何度か読み直して書き直してみた。
とはいえ、ちゃんと読めているかどうかわかりません。きっと毒多のバイアスがかかっているんだろうな、笑
自分を騙らずに語り直すこと、傾聴者として正しい他者となること、など課題は多いです。

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