写真やエッセイで他者に何かを伝えることは出来るのだろうか?……作品が命を得るとき

よく写真で何かを表現をするというけれど、その表現が他者に伝わることなどあるのだろうか?
写真はワタシが被写体に何かを感じた(もしくは被写体を通じての)私の感性とそれを私自身が形にしようとした表現でしかありません。
他者がその写真を観て何かを感じたとしても、その「感じ」はワタシの感じた何かとは別のものでしょう。
だってその人が感じた何かはその人独自のものだもの。
その人独自の経験で、その人独自の感性で、その人独自の人生で達した今のその人の感じ方なんだから。
写真は言葉ではないので、お約束である共通の意味もない。言葉による縛りがないので感じ方は人それぞれさらに大きく違っているかもしれない。いや違うだろうね。
もちろんワタシは自分の表現は「こうである」などと押し付けるつもりはないし、その人独自の感じ方をしてもらってかまわないと思っています。
何かを感じてもらえるという、そのことが嬉しいのです。

では、エッセイなんか言葉で表現されるものは、言葉にお約束の意味があるのだから伝わるかといえば、そうでもないと思うんです。
たとえば、ここ最近のワタシのnote「私が小さくなるということ」でもいいし、「生まれたばかりの無垢な感性を持ち続ける」でもいい、ワタシが感じて言葉に乗せたことが他者に伝わっているかといえば、疑問です。
この2つのnoteは個人性のつよい感覚的なものので、何を言っているのか全く解らないという人もいるだろうし、「解るよ」と共感を得たとしても私の表現が伝わったゆえの同じ感覚なのかなど解りようがない。
このエッセイに何かを感じる人はその人自身の経験を幾重にも重ねてきて、重ねた末の今の感覚で何かを感じているのだろうし、その経験もゆえの感覚も人それぞれなのです。だからワタシが私の感性で表現したかったことが伝わっていることもないでしょうね。

ただね、ワタシは私の感覚を言葉にした。
その言葉を読んで何かを感じた人は、その人独自の経験から獲得しているけど意識してなかった感性を「覚醒することができた」のかもしれないとは思います。もしくは既に覚醒している感覚の追確認。
個別の経験としては全く違うものであっても何かを「感じる」、自身の裡から何かが「覚醒する」、その「感じる」「覚醒する」ことについては、私の感性の発露と同じだと思うのです。
おそらく共感とはそこのことを言っているのではないかな。

傾聴では、話し手が自らを語ることでその人のもつ潜在的な「生きる力」を覚醒、自覚することができます。
ワタシはそこに至ることができる傾聴を「聴く表現」「話し手と傾聴者による共同作品」としたいと思っています、笑。
これと似ている。

つまりね、写真にしてもエッセイにしても、ワタシは私自身の感性を表現しているにすぎません。ピアノでも漫画でも絵でも俳句でも詩でもね。
それは誰かに何かを伝えるたいとか、メッセージを送るとかではありません。
それでも、観る人、読む人のもつ潜在的な感性を覚醒させることができたなら、作品は私自身の表現をこえて命を得たと思います。
もしかして目指しているのは、表現者と鑑賞者の共同作業による「作品」がそれぞれの人生を超え昇華して飽和していく、こんなことなのかもしれません。

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