言葉を超える感覚

始めに言葉ありき、か?
言葉をなくしては存在しえない、か?
分かり合うのも伝えるのも思索するのも、、、
言葉をなくしては困難そうだ。
とはいえ、、、
ホントのことは言葉のむこうに「ただ在る」のかもしれない。

少し前に“「存在」を確認しあう作業が、傾聴の本質”というnoteを挙げた。これは高橋和巳という臨床心理士がクライアントから教えてもらったとこと。
この言葉を読んで、あ、それはこういうことだったのか、、、というボク自身の体験と重なり、高橋さんの言葉が溶けて染み入るように身体の毛細血管まで届いた。
ただ、常にこの感覚が得られるかといえばそうでもない。
高橋さんの言葉と再会したタイミングの僥倖だったのかもしれない。

傾聴において、もともと話し手は「在る」を訴えていて、聴き手も「在る」に呼応すればいいだけのこと。上手くいかないとしたら、“存在を確認しあう”を聴き手が解っていないだけなのだろう。
ただこれは、言葉で知る、のではなく、身体的感覚的に識るというものだと思うので簡単にはいかない。
さらにたとえ一度、識ったからずっと同じ感覚でいられるかといえばそうでもない気がする。
ひとつは「存在を確認“しあう”作業」は、相手があることだから。
話し手だって「存在を認める」そんな言葉に至っていない。
「私が存在することを認めてください」ということを“言葉”で聴いたことは一度もない。
「存在」を確認してほしい、という「言葉」で自覚はしていない。言葉どころか意識としても解らない。深層にある無意識にあるのかもしれない。
話し手に自覚さえないという意味では、「在るを確認しあう作業」には、聴き手に意識が必要なのだろう。ただそれは「言葉的な意識」で認識するかもしれないが、本当に必要なのは言葉を超えた感覚でなければならない。
高橋さんの「言葉」を読んで知るのか、感覚を言葉にするとそれだったか…
と、こうして言葉にすることにも無理がある。どこまでもパラドクス。
言葉にするまえに、「ただ在る」のだけれど、言葉を介在しなければなんともならないのが結構、困難なのだ。

ボクの周囲にも素(先天的)の感覚として「在る」を感じている人がいる。
ボクが(後天的に)言葉と意識と無意識とまた言葉による確認と思索をしてそのうえで、あがいて体験を積み重ね言葉を捨てて感覚として感じ取ろうとしているなか、涼しそうに、あぁそれそれ、解るわ〜、という人がいる。
そうした人は「この社会」のなかで生活することに苦労している人が多いのだが、社会から切り離れ、ただ「在る」という話になると苦労しないらしい。
ただし、そうした感覚を元より持っている人も、「この社会」の生きづらさにしがみついている人には、涼しい顔で「それ解るわぁ〜」というのは無理なのだろう。素の感覚で在るを感じている人も、この社会を見切った人に限りそうだ……。
この辺りになんかヒントがありそうかな。

そんなことを考えているとshin ikegami氏のnoteからこんな言葉にであった。写真家、川内倫子さんの言葉。

撮ることによって、自分が生きていることを確認できる。
究極的には自分の命を生きるため、受け入れるために、日々を撮るだけでいいのだと。

写真を撮ること。
ボクが生きるなかでもうひとつしていること。
ここにも繋がっていくんだ、、(と言葉で知った)
被写体と存在を確認しあう作業だよな。
そうだ、たまに写真を撮るときにも言葉を超えるときがある。
あの感覚をずっと感じ続けられたいいのに。

日々を撮るだけでいい、、、
日々ただ“在る”になる、
日々を聴くだけでいい、、、
日々ただ“在る”になる。

言葉を超えていく感覚なんだろう、キラキラとしているに違いない。


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