「嫌われる勇気」と発達障害

アドラーを紹介する「嫌われる勇気」という本が好きで「あ、この人には」という友人に紹介することも多い。
タイトルの「嫌われる」ってのもワタシそのものだし、内容にある「常識へのアンチテーゼ」ってのも気に入っている。
承認欲求の否定も、そうだそうだ、とうなずいてしまったし、誰に対しても意識の上では対等であり、横の関係を築くってものワタシだし、
いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる連続する刹那なんです、なんて涙がでるほど同意してしまう。
嫌われようが今のこの生き方でいいんだ、と勇気をもらえる。
ワタシが賛同を得られると直感して貸した友人にも気に入ってもらえている。きっと、、、(この本に反発する人もたくさんいるだろう、だから直感でマッチすると感じた人だけに紹介する)

でもね、最近あることを聞いて考えてしまったのだ。
それは「引きこもり」の9割は発達障害だったということ。
話してくれたのはカウンセラーで学者で県のいじめ問題対策なんとかという委員をしている人。
厚生省の元ネタというんで、念の為調べてみたけどソースは解らなかった。
でも、発達障害の特徴とされる「相互的な対人関係が苦手」「コミュニケーションの障害」を考えるとある程度信憑性はあるだろう。

さて「嫌われる勇気」では、冒頭で「原因論」と「目的論」ということの説明をしている。
過去に「原因」があって今の状況があるのではなくて、今こうした状況を(それが悪い状況だとしても)キープしたいという「目的」のために過去の原因をいいわけにしている、というもの。
そこで「引きこもり」を例に挙げているのだ。
本は今また新しく紹介した友のもとへ旅にでているので詳細はトレースできないのだが、以前書き出したメモに以下のものがあった。

◎外にでたくないから不安という感情をつくりだしている。
◎われわれは原因論の住人であるかぎり一歩も外にでられません。
◎いまあなたが不幸であるのは、みずからの手で不幸であることを選んでいるからです。

つまり「引きこもり」も、例えば生育歴など過去の出来事が「原因」で引きこもっているのではなく、引きこもる「目的」のために不安という感情をつくりだして、引きこもりに安住しているのだ、というわけだ。
過去の「原因」がたとえトラウマになっていようと、人は生き方(ライフスタイル)を変えることはできる、自らの理性を自らの決意と勇気で発揮しよう、それは他者の承認ではなく自らの価値観によって、、、となるのだけど、はたして発達障害によって外に出ることができないのも同様なのだろうか?と思ってしまったわけ。
「嫌われる勇気」につづく「幸せになる勇気」という本では、いわゆる「問題」行動で第4段階の「復讐」として、ひたすら相手(例えば親)が嫌がることをするなかに「引きこもり」も含まれていたのだけど、はたして発達障害も含めていいのか?と疑問に思う。
どうもねぇ、先天的に足の悪い人に、さあ立って走り出そう、と言っている気がするんだよね。
クララのように足そのもの以外の要因で歩こうとせず、ハイジに、クララ立つのよ勇気をもって立つのよ、と励まされるのとは、そもそもの次元が違うのではないか、と考えてしまう。

前述の講師が話してくれた事例がある。
何度注意しても宿題をしてこない小学生がいた。注意するといつも「はい」と返事をしてくるけれどしてこない。
ある日担任がきつめに注意したとたん走りだし、校舎の窓から身を投げて死んでしまった。
実はその生徒がLD:学習障害だったことがわかる。
これは「嫌われる勇気」が言うように、宿題をしないことを目的にしているとは考えにくい。
つまり、宿題をしてこないことで承認されようとすることではなく、またサボタージュでもなく、足が悪い人が走れないように障害によって宿題ができなかった、ということなんだよね。

つまり何がいいたいのかと言うと、「引きこもり」とか「宿題をしてこない」という現実だけで「嫌われる勇気」(アドラー)に当てはめ、生き方を再選択することはできないではないか、ということ。
発達障害という研究がなされて診断がされるようになったのはここ数十年のことで、アドラーの時代には「発達障害」というに認識はなかったんだろう。
なのでアドラーが、通常多数と発達障害者をわけずに「引きこもり」も「原因論」とカテコライズしていたのかもしれない。(解らないけど)
ただ、疑問に思ったワタシは「嫌われる勇気」も気をつけて紹介しなければいけないな、と考えている。


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