支え合う、助け合う、という言葉の違和感

このnoteでは何度か登場した氷河期にネアンデルタールが滅び、ホモ・サピエンスが乗り越え繁栄した理由。
それはホモ・サピエンスが他者と繋がり、他者を支え、助けたから。
そうして絶滅を免れたホモ・サピエンス、つまり人間の本質は繋がることというのは実感としてもある。
当たり前すぎて気が付かず、敢えて言葉にして言ったり考えなくてもいいことなんだろうけど、敢えて言うのは、他者との関係が希薄になったときに「繋がる」を新たに確認できたようで却って新鮮だからである。
まあ、こんなことを考える「時期」ということなんだろうね。

でよく似た言葉で、支え合う、助け合う、があるのだけど、これは以前よりよく言われていた。この言葉自体を聞いてもあまり違和感がない、というのが実は問題で「あたりまえ」ではないということだろう。
あえて言葉にするということは、意識して支え合いましょう、助け合いましょう、と言われているということ。そんなことがボクのその言葉への違和感なのかもしれない。

支える、助ける、、、ではなくて、支え合う、助け合うなんだよね。
どうもね、「合う」ってのは感覚的にギブアンドテイクとか、損得が暗黙のうちに含まれている気がする。
暗黙ってのがいかにもいやらしい。
あなたが困っているときしてあげたんだから、私が困っているときはしてね。助けてくれたんだからそれ相当のお返しはしなくちゃね。
支えてくれてありがたいけど、すぐに支え返すことはできない、とりあえずお金でお礼をしたいんだけど、、、みたいな。
そういえば、借りをつくるのが嫌だから助けはいらない、ってのもあったな^^;
「合う」は「合うべき」「合わなければならない」となっていくのだろう。

そもそも「繋がる」は氷河期以来、支え合う、助け合うではなく、支える、助けるだった気がするのさ。
たまたまその時、余力があるものが困っているものを支える、助ける。見返りなどという発想さえなく、ただ支える、助ける。支える、助けるという言葉も必要なく繋がる。繋がるという言葉も浮かばず、ただそうした行為をしているという本能だった。それが、敢えて言葉にしてしまう。
しかも今では「支え合う」「助け合う」となる。
もしかしたら平等主義を叩き込まれたからかな。
行為=価値=賃金という経済的発想の影響はありそうだ。

ボランティアというと何か下心があるんだろ、みたいな発想をする人がいるようだけど、支え合う、助け合うの「合う」つまりギブアンドテイクが根底にある人の発想という気がする。
つまり、こうした「下心があるんだろ」的な発想は「支え合う」といいう言葉と通底する気さえしてしまうのだ。

支える、助けるは、そもそもは人間のDNAによる本能の行動で、とくに言葉にすることも考えることない、当たり前でいいと思う。当たり前ともいわないほど自然なこと。
というボクの感覚のなかで、「支え合う」っていいよね、と言われ、なんともモヤモヤとした違和感を感じた。
モヤモヤがすぐには解らず、考えずにはいられない裡なる「面倒なヤツ」がボクのなかでまた暴れてしまった。
せっかくだからnoteにメモっておこうと思う。
とはいえね、「支え合い」っていいよね〜、と言った人には直接いえない軟弱者orz


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