自死遺族のこと

いろいろあって自死遺族の講演を聴いてきた。
正直これまでボクはあまり意識しなかった人々についてのお話。

自死というのいわゆる世間で言う自殺のことで、なぜ自死というかはとりあえず置いておいて、自殺する人が天涯孤独でなければ自殺する人の遺族は当然生きて、いる。
完全に天涯孤独の自殺者がどれぐらいいるかわからないが、年間2万人以上が自殺する日本では毎年2万人の数倍の自死遺族がふえることになる。
自殺する当人のことをアレコレ想像したり、「いじめ」や「ブラック企業」というその背景をいろいろ論ずることがあっても、正直、遺族にまで思いは至ったことはなかった。

どうやら自死遺族は、ほかの死別遺族とはちがった複雑な感情があるらしい。
それは「自殺」に対する偏見ということだった。
ボクなんかだと「自殺」は原因が悪で本人は犠牲者と思っていたのだが、どうやら世間では違うらしい。世間では自殺は、いのちを無駄にして逃げた、とか、自殺なんて恥、というふうに他の死因にくらべて「劣位視」され、差別、偏見で見られるというのだな。
遺族も同じ偏見をもっていれば、「自殺は親族の恥」となるか、そうでなくても死なないよう何かをしてあげられなかった、という自責の念に襲われる。
世間ではコソコソ話のゴシップになり、遺族はタブーとして家族の秘密にして、なるべく触れないようにするわけだ。遺族は悲嘆や自責を裡にとじこめて語ることはなくなる。
傾聴をかじりだして、喋ることでカタルシスの効果があることを実感しているので、語りたくても語ることができないことの悲惨さは容易に想像がつく。
自殺について世間の偏見で語ることができない。そのうえ遺族自身が世間と同様に偏見をもっていれば自ら黙ることになり、さらに自責も重なれば「自分の責任を喋りたくない」のは人情であり喋ることはなくなるだろう。
それでも「助けてほしい」となれば、「助け合う」こともできるが、「助けて」も語られないとなると、孤立しさらにメンタルは悪化する。

そんななか自死遺族の支援がなされてきていると話された。
苦しい遺族同士が語りあう場をもつ自助グループみたいなもの、、、。
苦悩や自責の念が解り会える者同士が、少し安心して語り合える、というのはとりあえずは、いいことだと思う。

ただねぇ、講演のなかで語られた自死遺族支援は、いろいろな問題を抱えて試行錯誤のなかにあるという印象をうけた。
自死遺族の支援は、自死遺族が落胆のあまり後追い自殺する可能性があり、それを阻止するためにも意味があるのだ、、、なんて言っちゃったから、自死遺族から冗談じゃないとクレームがついた。そのクレームは当然だよね。自死遺族の心のケアが唯一無二の支援目的であるはずなのにその「効用」なんて言っちゃたうえに別の問題につなげちゃうのは、もうほとんどセカンドレイプでしょうが。
で、クレームがついたから修正したっていうのだけど、最初から分かるだろ(バカ!!)とボクはかなりイラッとしてしまったの。

最初にかいた「自殺」ではなく「自死」ってのも、自殺が劣位視されるのは「殺す」というイメージがあるからで、自死とした。それは単に言い換えたのではなく、自死という言うことによって新たな意味付けをするということ。それは「無駄死に」や「いのちを粗末にした」こととは違ってみえる「生きた証への敬意」としたいんだって。(死因に優劣があり、それに乗ってしまうってのもどうかと思うのだけど、、、orz)
ということなんだけど、かといって「自死(自殺)」を肯定することではない、というんだよね、
まあ、そう言うしかないんだろうけど、どうも「自死」を認めちゃっているみたいに聞こえるんだよね。ロジックとして肯定するわけではないが認める、はおかしい。
「自死」とうと、寿命や病死でなくて、自分はもう人生を生ききっただから「自分で死ぬ」というイメージをうける。それはボクも別にいいと思うのだけど(なんて言っていいのか?)、実際の自殺は「自分で自分を殺す」というよりも「なんらかの原因により自分が殺される」なんだから、まったく自死との語義と違う気がするんだよね。

自殺というと「死んだ」という事実だけがすべてで、そこしか考えられなくなってしまうのだけど、そこまで「生きた」ことを認めて、その「生の証」をみつめていこうという遺族の支援のあり方が語られ、そんな自死遺族のメンタルケアのために「自殺」を「自死」と意義も変えていこうってんだけど、聞いていたボクは、やっぱり「殺されたわけで」と思ってしまって、シックリこない。
実際、「自殺」という言葉がをなくさないでほしいという遺族もいるみたいだしさ。
どうもね、なんだかねぇ、なんだろうねぇ。なんともしっくりこない講演だったんだよね。

で、考えたんだけど、この講演ってすごく根本的なことが解ってないから矛盾だらけの変な話になってんじゃないの?

自死遺族がなぜ自分の心をとじて語れないのか? 問題はそこでしょ。
自死遺族がなぜ、自死遺族同士その悲嘆と自責を共有するもの同士でしか語り合えないのか? 実はそこも問題でしょ?
それは世間が偏見で蔑視しているからでしょ。自責は世間が「当然で遺族にも責任がある」と言うからでしょ。だから語れない。
でもね、それは遺族のせいではなく、世間のせいのわけ。
変えるべきは、自死遺族のほうのあれこれではなくて世間の方でしょ。
世間の偏見と蔑視をそのままにしておいて、なんで自死遺族のほうに責任を押し付けるのさ。
それは構図としては偏見にみちた世間と同じじゃないのですか?
自死遺族は責任を感じる必要もなく(感じているのなら感じていることを)、どこまでも哀しい思いをどこでも誰にでも語れればいいのではないのですか? それが聴ける世間に変えることが支援じゃないのでしょうか?
世間へのアプローチと自死遺族へのアプローチを混同しているからおかしな話になるんです。

また批判だ、、、、最近こればかりだな^^;

とりあえず、ボクは意識していこと思っています。自死遺族という存在を知るというだけでも講演を聴きに行った意味はありました。


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