傾聴、「ただ聴く」ということ

傾聴とはただひたすら聴くことです。
語ることはなく、
ただひたすら聴くことです。

これがなぜ出来ない。

アタマは制御しようとするけど、
どうしても語ってしまう。
なぜ?
実感がほしいからだ。
ここまで得た知識と重ねた思索と討論の実感が。
自分の言葉が他者に何かをなしえようとしている実感が。
つまり自分がここに存在するという承認が。
自ら語り承認されること。
たとえ他者を利用にしようとも。
 
傾聴とはただ聴くということ。
他者の主張にすべてを委ねること。
他者の言葉、感情、息遣いをすべて聴くということ。
傾聴者に求められるのは自己の滅却。
心にある複雑な色をすべて消し去り、
アタマにある数々の情報をすべて初期化し、
傾聴について学んだすべてを乗り越えて、
自己を滅却する。
ただ聴くにより他者に委ねる。
ただ聴くというはそういうこと。

それができない。

そもそも矛盾しているのだ。
傾聴をしようとする自己主張と、
傾聴で求められる自己滅却は。
傾聴により他者自身の役に立ちたいという自己自身のためと、
傾聴により他者自身が到達しようととする他者自身のためは。

自己主張とは欲望である。
おそらく誰も否定できない。
自己認識がなくとも自己主張をしようとしている
それは社会の要請であるから。
そうやって育てられてきた。
教育であり、学習であり、社会人になるための必須。
それ以前から人間のDNAであり、宿命である。
他者の役にたちたいと言う裏にある自己主張。
傾聴とは矛盾してしまう。

傾聴には自己滅却が必要。
自己主張を隠匿することのない純粋な自己滅却。
ん?自己滅却?それは悟り?達観?
自己が滅却されたさきにあるのは、
自己という境界がない純粋な共感。
他者、自己という境界のある共感ではない。
普遍的な感覚への到達。

それがなんであるか分からない。
ただ聴き手側だけが境界を霧散することはできない。
境界が霧散するということは語り手側の境界も霧散する。
それは語り手の自己滅却である。
語り手、聴き手の共同作業であり、
共に到達する世界だろう。
傾聴そのものが修行なのかもしれない。
語り手にとっても修行なのかもしれない。
語り手が苦行であるなら、聴き手も苦行なのだ。
おそらく目指しているのは、
役に立つ、立たない、解決する、しない、うまくいく、いかない、、、
満たされる、されない、
ではなく、
そうしたこととは違う地平に立つ。
無我を識る。

おそらく傾聴の「ただ聴く」の真の意味はこんなとこのような気がします。
ただ、誰もこんなことは意識しないし意識できない。
つまり出来ない。
でも、出来ない自分を認めるところしか始まらない。

※こんなことを語っていることも自己主張であり自己承認の欲求なんだろうけど。


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