「嫌われる勇気」アドラー的 SNS考

 実はめちゃくちゃ我が強く自己中なことは自覚している。
 そんなボクが、ちょっと「普通人」として振る舞ってみようと思ったのは7~8年前の同窓会あたり。
 ちょうど子どもの成長にあわせた保育運動にも区切りがついたタイミングだった。
 あ、普通人でないってのは、市民運動系の友人、被差別部落出身や在日コリアや被差別民、ホームレスなんかのそれまでお付き合いが深かった人。

 で、「普通人」として振る舞うってのは、普通のサラリーマンで昔からの悪友のゴルフの輪に入ってみたり、同窓会からの呑み会に参加してみたり。
 そんなこんなで普通人としてちょくちょく普通の人と会うときの会話は、昔話やら、仕事のトラブルや自慢、万博に行った回数やオリンピックやワールドカップやプロ野球や、やれブランドものを買ったとか車を買ったとか、株やらFXやら、ゴルフクラブ購入自慢やゴルフのスコア自慢やどこそこカントリーに行った自慢にニコニコしながらお付き合いし、存在や虚構の思索や真理や心理の話はつぶやいてみたものの反応がなく、すぐに口を閉ざした。

 そんな頃、同窓生で旧友の誘われてやってみたのがフェイスブック。
 もともとブログをやっていたので、ブログのノリで書く。
 もちろんブログのように思索まじりではなく、普通にあわせて日常のことをギャグにメタファに皮肉を込めて面白おかしく書き始めた。
 「長い!!、他の人のFBをみてみ」これが最初に旧友に頂いたコメント。
 ボクはわけが分からず聞いてみるとテキストが長いらしい、他の普通多数に合わせて短く書けと命令された。
 その旧友の過去ログを見てみる。
 今日はどこそこの有名ラーメン屋で食べた(丼写真付き)。
 今日はおしゃれなスパゲティをつくってみた(夕食写真付き)。
 今日は仕事でどこそこの観光地に寄ってみた(風景写真付き)。
 そんな瞬間が一日に何度もあがり、「いいね」がいっぱいついていた。
 ボクはわけがわからなかった。それは報告なの?自慢なの?何が「いいね」なの?
 そんなことでも疑問に思ったら聞くのがボクの普通になりきれないところ。
 食った昼飯を自慢しているの? 別にお前の生活しらなくてもいいんだけど、笑、とか、 
 「いいね」っていったいなんなの?とFBにあげて聞いてみいた。
 これが旧友の怒りをかった。
 「人はみんな承認欲求をもっとんじゃ、マズローをしらんのかい」と説教された。
 マズローは知ってますが、FBの「いいね」ってのはどの欲求段階なの?
 その後その旧友は、ボクへの「いいね」はしなくなり、コメントもなくなった。
 仕方がないので、ボクはメモ代わりに読んだ本の感想を書き始めた。
 ある時「絶歌」を「いい本」としてFBにupした。
 その旧友は気に入らなかったらしい。自分のFBに「絶歌」批判を鬼のように書き始めた。
 同窓会のFBネットワークの数人が、旧友に同調して「絶歌」を支持したボクの批判を暗に書き始めた。
 その後ボクはFBに意味を見いだせずIDを返上した。
 辞めてから、その旧友たちがFBでなにをしているか知らないし、リアルの生活もしらない。正直どうでもよくなった。
 それからも割に仲がよかった悪友とのゴルフはやり続けたが、いつまでたってもループする会話とゴルフで会社の鬱憤による心の穴を埋めるのに付き合っているように感じ、耐えられなくなりちょど1年前にゴルフもやめた。やめてからゴルフでしか会わない旧友たちとも会っていない。
 今年あるという同窓会も「欠席」と連絡した。100人以上集まるだろうに、そこで会う誰との再会もまったく楽しい想像ができない。
 こうして「普通人」(としての振る舞い)をやめた。
 ゆいいつ場末の呑み屋がよいでは、普通の人を続けているのだが、笑

 あれ? なんだっけ? なにを書いているんだ?
 そうそう、「嫌われる勇気」的 SNS だった、笑。
 『嫌われる勇気」でアドラーは端的に「承認を求めてはいけない」と言っている。ここを読んだときに、上のフェイスブックの出来事を思い出したのだ。承認を求めることは、他者の欲求を生きていることで、自分を生きていないことに繋がる。その旧友のやたら多いフォローと「いいね」の数。そういえば旧友は承認されるためにやっていると言っていた。だから思い出したのだろう。
 たまにフォロワーの増やし方やみんなにウケるテキストの書き方、なんて記事も目にするけど、そういうのがあるということは承認を求めてやっている人は多いのかもしれない。まあ分かりやすいのに「インスタ映え」というのがある。完全に他者のウケねらい。テレビでちょこちょこ目にするが、流石に写真はボクの分野のひとつでもあるので苦笑してしまう。アドラーも笑い出しそうだが、アドラーは批判はしない。それは他者の課題だからね。アドラーでなくてもボクもそうした他者のことはどうでもいい。インスタ映えどうぞやっててください。そうじゃなくて、それは非アドラー的なんだな、ということ。
 それと「自慢」は「劣等コンプレックス」と同様で、いまの自分の課題を見出してないか隠匿していることと同じことらしい。そんな自慢FBも見かけたなぁ〜、と思い出す。
 本を読みながらさらに思い出すの論争。ブロブなんかだとありがちなんだけど、他人の課題に土足で乗り入れるってやつ。これボク自身もちょくちょうやっていたんで反省したいのだけど、アドラー的にはやっちゃだめってことだな。これは関係としては上下関係をつくろうとしていて、他者を支配しようとしている。支配することで自分の課題から目を反らしている。さらに、土足で乗り込んで「説教」して支配したところで、その他者は絶対に変わらない。自らの気付きによってしか変わることができないので、二重の間違いをおかしている、となりそうだ。
 
 さて「note」はどうだろう?
 フォローやスキってのがあるし、やっぱりフォローされたり、スキを押されると嬉しいという気持ちはあるから、アドラー的には「承認欲求」の罠に陥りやすいのだけど……、ただアドラーも単独者になれとは言っていない。自分の課題のために気づき合える「横の関係」をつくろう、自己を課題をこなすなかで刺激になる仲間をつくれ(というイメージ)、と言っているわけだ。やっぱり自己の課題に自ら気づく影響をあたえてくれるnote(作品)は「スキ」だし、そうしたnoteを挙げる人は「フォロー」したくなる。そんな感じのスキ、フォローならアドラー的と言えるのかもしれない。
 それと、アドラーは人生は「線」ではなく、人生は点の連続といっている。「いま、ここ」の点を舞うようにダンスをするように生きろ、というんだな。自分のつくる作品一点=noteのひとつひとつに全力で向き合って「いま、ここ」に全力を出し切って踊れ、そして次の点に移って舞え。noteひとつひとつにそんな風に踊ることができるなら、noteというSNSはアドラー的に使用可能といえるのかもしれない、笑
 

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