アドバイスと自己満足

悩む人がいる。
悩む人に、他者からのアドバイスははたして意味があるのか?
たとえばピアノのレッスンとかテニスのコーチとか書の指導とかではなく、人生とか生きるとか存在とかに「アドバイス」など意味がないどころか害悪ではないだろうか?

そも自分の「生きる」は、自己の納得でしか充実しない。
得られた納得は自己にとっては「正しい」。
にもかかわらず、その「正しい」が見つからなかったり、その「正しい」に自信がなかったりするから悩むことになる。
もしくは「正しい」が否定されるから悩む。

悩む人が他者に悩みを打ち明ける。
その他者は善意で、良かれと思いアドバイスをする。
ところがそのアドバイスは、アドバイスをする他者の「正しい」であって、悩む者の裡から出て悩む者自身の「正しい」ではない。
他者の「正しい」によって、自己の「生きる」に納得は得られない。
つまり、アドバイスをそのまま聞き実行しようとすると自己の納得、自己の「正しい」がないまま、生きることになる。
まあ自己の「正しい」を確認するための思索の参考になればいいのだが、まあ希だろう。

さて「悩み」はどこから起きるのか?
おそらく多くは社会との関係からおきることが多いのではないか?
自己の「正しい」が社会の普通から疎外される。
自己の「正しい」は社会と反りが合わない。
自己の「正しい」が社会から認められない。
という具合に。
そうした悩む者に対してのアドバイスも多くは、
社会の「正しい」への合わせ方。
社会の「正しい」へ従い方。
社会の「正しい」に傾倒するノウハウ。
ではないだろうか?
果たして社会の「正しい」はそれほど正しいのだろうか?
社会の「正しい」を信望するアドバイスは正しいのだろうか?
それは単に社会の「正しい」に隷従することを「正しい」とする他者によるアドバイスではないか?
それと、おうおうにして他者は他者の「正しい」を強要する場合がある。
その「正しい」はその他者自身の「正しい」でさえない可能性がある。
受け売りの「正しい」ではないだろうか?
個々の「正しい」が異なることを知る者はアドバイスなどしないのだろう。

たとえば悩む者はもともと社会の「正しい」との齟齬が原因で自己否定感をもち悩んでいるとするなら、社会の「正しい」に隷従しなさいというアドバイスは、たとえ、発するものは善意でも害悪になるのではないか?
はたしてそうしたアドバイスを聴いた悩む者は悩みを解決することができるのだろうか?
無理だろう。なぜなら自己の納得のゆく「正しい」ではないから。
どころかさらなる悩になるのではないか。
悩みスパイラルに陥る。

悩む者は、自己の裡から出る納得のゆく「正しい」にたどり着くことができたなら、それを信じ自信となる。
それは自己肯定感であり、自己満足につながる。
さて、ここでまた「自己満足」についての是非という問題にぶちあたる。
自己満足は是か非か・・・はたして自己満足でよいのだろうか?と
「自己」満足であるから他者の共感をよぶか、他者に承認されるか、といえば必ずしもそうはならない。
さらには、社会の波にうまく乗れるか、社会で得するか、社会に貢献できるかといえば、そうなればいいのだが、まあならないことが多いだろう。
だって自己満足なんだから。
という風に考えれば「非」というベクトルになってしまうかもしれないが、では「他者」とか「社会」と一致すればいいというものではないだろう。
まず自己があり、自己の裡から滲み出る「正しい」を信じ、その「正しい」に忠実に生きる人生は充実しているのではないか、それが他者の「正しい」と異なり、社会の「正しい」から外れても否定されるわけがないではないか。(とりあえず法律内としておくが・・・)
自己にとっての「正しい」に満足できればなによりである。

そんなわけで、アドバイスは不要、自己満足は是としたい。

悩む者は、実は、自己の裡から滲み出る「正しさ」に気づいている。
多数は自己の「正しさ」の気づかない、気づかないふりをして他者・社会に合わせることが「正しい」と思い込んでいる。
悩める者はそうして自己を誤魔化す者より進んでいる。
ただ、その「正しい」を信じることができない。
他者や社会から否定されるから。
つまりそれが悩みとなる。
自らの「正しい」を認識し信じることができるになるために、「正しい」を阻害する不満や苦悩や苛立ちや何もかもを喋って喋って喋って喋って、喋り疲れたときに、裡にある「正しい」にたどり着き、認め、信じることができるのかもしれない。

それが傾聴。


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