道具を使うか、道具に使われるか、それとも道具を通して新たな自分を見出すか?

随分まえのこと。
友人たちを森に案内することがあった。
私が車をだし、友人たちをピックアップしながら森へ向かう。
最初の待ち合わせ場所で車に乗り込んだ友人に、
「そういえばカメラをちゃんと持ってきたかな?忘れてていたら取りに帰らなくちゃ」
とカメラバッグのファスナーを開けてカメラを確認しながら言った。
「え、取りに帰るの?」と友人は怪訝な顔をしていた。
もし忘れていても取りに帰ることはなかったとは思うけど、冗談のようでかなり真面目だったことを思い出す。
本当に忘れていて、友人たちとの計画でなく、一人だったら間違いなく取りに帰っただろう。
そんなことを思い出しながら、それは何故だろう、と考えている。

カメラに望遠レンズをセットする。
ボクの場合、鳥を撮るためである。
鳥も美しくかわいいため撮れるものなら撮りたい被写体である。
望遠レンズを嵌めて、鳴き声と木の間の動きに注意しながらレンズを向ける。
なんとか撮れた。
次の鳥を求めて眼と耳を鋭利にする、、、、これを無心に繰り返す。
そんな自分にふと気がつく。
あ、レンズに使われているな、と。
もともと鳥だけを撮りに来ているわけでない。
花も虫もそして何より光による心象を表現したいと思っている。
にも関わらず、一旦望遠レンズを嵌めると鳥ばかり探してしまう。
こうしたことはちょくちょくある。
そんなときレンズに取り憑かれて、レンズに使われているな、と感じるのだ。

レンズに使われず、レンズを使っているときは、まず最初は心の動きがある。
森の空気や光を五感で感じて目に入った心象を一番表現できるレンズで撮る。
もちろんそれが鳥でもいい、まず鳥がいて、鳥が心に映ったから一番表現できる望遠レンズを使用する。
虫ならマクロレンズ、光ならオールドレンズと使い分ける。
レンズに使われるのでなく、レンズを使っているわけで、これが本来の姿だと思う。

と思っていたが、もう少し考えているとそれもさらに違うことに気がつく。
それが最初にあげたカメラを森に持っていきたいという理由なのだ。
レンズに使われるのではなく、レンズを使うのでもない。
カメラとレンズによって自分でも気が付かなかった自分の裡に眠る感性が引き出される。
レンズによって未知の自分の表現を自ら引き出す。
ただレンズに使われているだけでは自分というものはいない。
レンズを使っているにしても、もとよりある自分の感性のみである。
そうではなく、レンズをつかって自分の新たな感性を見出す。
ただ素のまま森から受ける感動ではなく、ファインダーを通して新たな森の表情を感じ取れる自分になる。
カメラとレンズという道具にはそうした能力があるんだろうな。

たまたま今、カメラとレンズという道具が私にとっては一番実感があるのでそれらで考えたのだが、道具というのはそうしたものかもしれない。
道具を使う、道具に使われるか、それとも道具を通して新たな可能性を見出すか?
いやいや、道具だけではないかもしれないな。
たとえば、SNSに使かうか、SNSを使われるか、SNSを使って新たな自分を発見するか?
それとも、組織に属するだけか、組織に盲従するか、組織により新たな自分が引き出すか?
ただの仲間たちなのか、ただの会社なのか、ただ国家なのか、、、、、、
それともそこを通して新たなる自分を見出すか。

人は生まれたままの感性では成長しない。
かといって学んだり教えられることだけをどれだけ暗記していても成長とはいえない。
学ぶこと教えられることを通して自分の感性が磨かれるときだけに成長があるのではないだろうか?


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