物語(魂)はたとえボクが死んでも人々に広がる。ましてや生きている今は、、、(ふいにサポートを受け考えたこと)

ふいにnoteからメールがくる。
思いがけず「サポート」のお知らせだった。
あまりに突然のことで驚き、戸惑う。
どうしよう、、、ただ好き勝手に書いているだけなのに。
ボクのnoteに「気づきがあった」というメッセージ。
じゃあ、、まあ、、いいかな。
素直にサポートを受けよう、と思った。
物語が広がったぁ、と感じたら、とても嬉しくなった。

noteにボクの思いを綴る。
それはボクの物語である。
いや、正確にはボクの物語ではない。
ここまで生きてきた全ての出会いが織り込まれた物語である。
家族であったり、友人たち、路上に横たわる人々、子どもたち、ブログで出会った人、本で出会った言葉の人、映画のなかの人々、傾聴の話し手、傾聴の仲間、会ったこともないnoteの人々、蝶、枯れ葉、森のなにもかも、、etc.
これまでのありとあらゆる出会いがボクのなかで生きていて、その躍動が入り交ざり織りなし、また新しい物語として紡ぎ出される。
現実の世界では、死んだ友人もいたり、二度と会わない人もいる。テキスト(本)でしか出会わない偉人だったり、架空の人々や変化し続ける森の住民もいる。たとえ既に身体は死んでいても架空であっても、ボクの裡で生きていて、ボクを構成している。
同じ人生を歩む者は誰ひとりいないとするなら、一人ひとりの裡で幾多の物語が在り、世に紡ぎ出される。その物語は他の誰かの裡で融合し、また誰かの裡にその物語が取り入れられて無限の広がりをもって色彩を織りなす。
こうした物語を魂と呼ぶなら、魂は永遠に人々の裡を彷徨い新たな生命となり空間、時空をこえ飛び回るだろう。
たとえボクの身体が明日失われても、ボクの魂は誰かの裡に生きその誰かの物語に織り込まれて生きていくに違いない。
ボクの身体がなくなってもnoteのテキストや写真は(とりあえずは)亡くならないだろう。
つまり、魂は遺るのだ。
誰かの目にとまれば、そのものの裡に魂として宿り、物語として蘇生されることもあるかもしれない。
きっと魂は永遠に生きつづける。

ボクは今、ここで、生きている。
ボクが死んだら、ボクの魂を死んで身体を失ったボクが認知できるかどうかは解らない。
それは誰にも解らない。
身体を失ってみたら解るのか?それも解らない。
とりあえず身体が在る今は多くの魂を感ずることができる。
実感として魂が在る。
生きてるということは魂を感じること。
魂が在るを感じること。
そして新たな魂を物語として紡ぎ、世に放つことができるということ。
人が生きて在る、ということ。
全ての生きる人の物語。

サポート主から「気づきがあった」というメッセージをもらった。
ボクの魂の欠片がボクから離れて他者のなかで生きている、という便り。
それは、そのままではなく他者の魂と融合して新たな物語となって生きるのだろう。
きっとその物語もまた誰かに届くだろう。
無限の広がりをもって誰かに届くにちがいない。
もしかしたら生きていればまたボクの元に戻ってくるかもしれない。
誰かの裡で再び織られ信じられないほど新鮮な物語となって。
これまでも気づかないうちに転生していたかも。
魂の転生……。
それはとっても楽しいこと。


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