認識の不一致からの情けない自己

まだこんなレベルで生きているのか、と思うと自分にガッカリする。ガッカリしている自己を俯瞰するとさらに滅入っていく。負のスパイラルである。
多少酔っていたこともあるかもしれない。でなければ、こんなしょうもなくどうでもいいことで、、orz、、いやそこから本質的なものが見えてしまったのだから仕方ない。酔っているときのほうが本性がさらけ出されやすい。

春休みで帰省中の息子と軽い言い争いとなった。
言い合いの素は7年前に買った「白い腕時計」だった。
7年前、息子が高校受験直前に「音のしない時計」が必要だと言い出したことから始まる。
何故こんなギリギリに、、、と、ブツクサいいながらも、仕事を切り上げイオンの時計屋に走った。
店員と「音の有無」で揉めながらクオーツの秒針の音がなる針の時計ではなくcasioのデジタル時計を買った。
帰ってきて息子に渡したときの反応は覚えていていないが、たった数時間の受験でお役御免になるのはあまりにも勿体なく、「受験のあとはジョギングのとき使おうかな」と言った覚えはある。
実際はジョギングで使うこともなく放置されたのは、腕時計をはじめ指輪やブレスレットなんか物を身体に巻くことが嫌いだったから。

7年が経ち、息子が腕時計を買おうかな、と言い出した。
で、あの白い時計があるやん、、と言ったわけだ。
でも息子はあんな使いにくい時計は嫌だ、と白い腕時計をディスりはじめた。
わざわざ買いにいったことを思い出し、ちょっとカチンときた。
勢いで、お前のために買ってきたのに、、、と言い放つ。
すると、え、あれは父さんがジョギングのために買ったヤツを貸してくれたんでしょ、と宣いやがった。
はぁ〜、お前が急に言い出したからわざわざ、買ってきたのではないか、かなりムキになり言いながら、時計屋の店員と揉めた場面が鮮明に思い出され、イラッとした。
それでも息子は引かなかった。
母親、、つまり嫁さんも息子と同じ認識だった、、、orz
なんだか家族に全否定された気分になり投げやりな捨て台詞を吐き出した。大人げない。大人気ないことは解っている。しかもこんなしょうもないことで。でも、なんとも寂しい気持ちになってしまったのだ。
もしかしたら、これまでに彼のことを思いやってきた何もかもが、全く認識されていないかもしれない。すべて不一致。ぐらいの被害妄想に陥いたのは酔っていたからかもしれないが・・・。

よくよく思い出してみれば、仕事を中断してわざわざ買いに行き店員と揉めながら買ってきたということは自分だけの記憶で誰にも言っていない。さらには、もったいないのでジョギングの時使おうかな、と言ったことから、息子の「白い腕時計」の認識(物語)は出来上がったのだろう。
認識の不一致である。
これはどちらが悪いということではない。
不一致がおきた事実を受け止めればいいだけの話。
もし一致させたいのならば、解るように説明すればいいのだ。
それができないのは感情的になっていたからかもしれない。それとも・・・

問題の本質は、何故、息子のために買ってきた腕時計だと息子に解らせたいと思ったのか?である。
もしかして、息子にお前のためにやってやったんだ。だから自分に感謝してほしいと思っているのではないのか?
おそらくそれだ。それに違いない。
これこそ救いがたい問題ではないか。
息子のためにしてやりたい、という自己の目的(課題)は時計を買うことで果たすことができた。それで完結で満足すればいい。
たとえそれを他者(息子)に理解されなくても何の問題があるのだろう。
何も問題はない。
他者に何かしら見返りを期待していたのだろうか? 
そうに違いない。間違いなく感謝を期待していたのだろうorz

ワタシは、まだこんなレベルで生きているのだな。
ここのところ生活のなかで、小さな認識の不一致が立て続けにおきている。不一致は仕方ないといえども重なればなんとなく感情的にシンドいし面白くない。
感情的な解決には、ちゃんと認識を一致させる作業が必要かもしれないし、それとも認識の不一致を確認する作業が必要かもしれない。必要ならそうすればいいし、所詮感情のこととして必要なければやらないくてもいいだろう。
それより以前に、根本は「自分がしたくてやったこと」なのだ。他者のためではないのだ。すべては自分が自分の意志でしたことなのだ。
それを他者が過小評価しても、あるいは無視してもそれは他者の価値基準であり、他者のリアクションは、自分が「やりたくてやった」こととは別の次元に在る。つい忘れてしまうこのことを自己の裡でまた確認したい。

どうもまだ承認欲求を求めて生きているんだなぁ、と思い知らされた。あえて恥を晒して忘れないようにしておこうと思う。


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