noteでコメントするということ

noteにコメントを頂いた。
ワタシが「甦った」「別人のよう」「戻ってきた」、というコメントだった。
ああ、あなたの目には、こういう風に映るんだ、と感じた。
まったく悪意がないことは分かっているし、むしろ好意的な表現として受け取るべきなんだろうと頭では分かったし、実際にそうだと思う。
しかし、感情はまったくそうは受け取れなかった。
これは、全然違う、まったく違う、と感じた。
もちろんその人にそう映ったことを否定はしないし、素直なコメントを責めるつもりはない。
純粋に自分の感情と向き合い見つめたいと思ったにすぎない。

年末から年始にかけてワタシは、過去を語り直し、しらずしらずうちに引きずっていた過去を精算しようとあがいていた。
精神的に過去と決別しよう。
それはワタシに期待してくれる古くからの友人を落胆させるものかもしれない。
重なるときには重なるものだ。
別の友人にも不快な思いをさせたかもしれないLINEを送っていた。
これもワタシ自身が無理することなく今の自分に正直に生きようと思ったから。
いや、いまのワタシだから重なったのかもしれない。
どちらも、ワタシにとって他者を落胆させるかもしれないという思いの伴うものだった。
二人ともかけがえのない友人である。

素直な自分の感情・・と、友人の期待。

自分を偽ってまで友人の期待に答えるのは違うと感じる。
それは分かっているが、それで友人を失うかもしれない。
友人は失うと思っているのか?
自分をしっかり持っている大人の友人というのはある意味ドライだ。
孤独を恐れない。
無理して他者に合わせることはない。
素直に助けを求める。
助けがえられないことをあっけなく受け入れる。
だからこそ大切な友人でいられるのだ。
感性が合わないとなれば別の人生を歩むことに躊躇しない。
ワタシもまた自分に素直で正直でいなければ友人ではいられない。
そう無理して合わせようとするワタシならば、ワタシを友人とはしないだろう。分かっている。
だからこれが最後かもしれない。

それでもいい、とワタシも思っている。
今回は駄目だったね、仕方ないさ。
またお互いを本当に必要としあうときには再び出会うさ。
お互いの素直で正直な思いが一致するときが来るさ。
とはいえ、いまもがいている自分もいる。
そんな簡単にドライに割り切れるものか?と。

そして、言葉も写真も生活も迷いが生じた。
だから敢えてジタバタとトライする。
今、自分がしたいことは何か?
自分とはなんだ?
こんな時むりやりでも行動して、書いて、撮って、自分の正直を確認する。
とにかく身体にまかせて無心になる。
そうすれば一歩進めるかもしれない。
いまはまだその途上。
いや、ずっとその途上。エンドレス。

ワタシは、、、、
蘇ってもいないし、別人でもない、もちろん戻ってもいない。
そもそもワタシは蘇らないし、別人にもならない。戻りもしない。
腐っていても、ダメダメでも、写真が撮れなくても。
駄目な写真であってもワタシなのだ。
どれもワタシであり、ずっとワタシでしかない。
もがきながら上書きされていくワタシなのだ。
上書きというよりも上塗りだな。
すべての経験という色のうえに自ら新しい色を塗る。
きれいに色が乗らず、カスレて塗りきれなくて、下の色がにじむ。
その下の色も重なり、新しい色ができる。
風化したり剥がれたりして過去の色たちと混ざり合う。
何度も何度も挫けながら上塗りする。
すべての層の色が混じり合う。
それがワタシなのだ。
それはずっと未完成のプロセスなんだ。
それでもその色はワタシなんだ。

コメントの話に戻る。
こんな風に良かれと思って贈られた何気ないコメントにもすれ違うことがある。
ワタシもきっと他所様には、自分の思いを伝えようと、何度もすれ違いのコメントを書いてきたんだろうな。自分にこうしたコメントが送られたときに、初めて分かる。
ほとんどの人は、ワタシの書いたコメントに「違う」と思ってもスルーできるのかもしれない。

今回、このコメントをくれたのはリアルな友人で傾聴仲間でもある。
だから敢えて書いてみた。スルーできなかった。
傾聴では、自分の思いを話すなんてことは間違ってもしないとは思うのだが、たかだかnoteのコメントでも、今他者が一番渦中にいて一番あがいて一番大切なことだから、すれ違いが刺さることもある、ということを書いてみた。

だったら、どうコメントすればいいかって?
そんなことは分からないのだが・・・


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