人間からの自由

歩けなくなってから何故か尾崎豊を聴いている。
歩けない繋がりなのか、不自由繋がりなのかは解らない。
ふと尾崎豊を思い出し、なんとなく聴いているのはそうしたタイミングなんだろう。

歌を聴きながら、
○○から自由になりたい。
○○から解放されたい。
ということのロジックが浮かんできた。

○○から自由になりたい、と感じるためには、まず○○の一員でなければならない。
○○が彼氏ならば、恋人同士という関係の一員だし、○○が家族なら家族の一員、○○が学校ならば学校の一員、会社なら会社の一員、というように。
○○の一員である自分が不自由(生きづらい)と感じなければ、〇〇から自由になりたい、とはならない。
そも○○の一員として自由であれば、〇〇から自由になりたい、とはならないだろう。
さらに〇〇のことをよく分かっていなければ、○○の一員として不自由(生きづらい)というのは勘違いかもしれない。
○○のことをよく理解したうえで、○○から自由になれたなら、真の自由になれる。
彼氏のことをよく知り、なぜこの彼氏といると不自由(生きづらい)かを理解したうえで、新たに得る自由なら、新たな彼氏とはさらに自由な関係でいられる。
家族のことを知り、なぜ家族といると不自由(生きづらい)なのかが解ったうでの新たに得る自由は、ただの自由よりも自由だ。
学校(学ぶこと)のことをよく理解して、不自由(生きづらい)である理由を識るなら、もっと自由な学びを得られる。
会社(働くこと)を理解して、不自由(生きづらい)であることの理解を深めるなら、、、、
尾崎豊(もちろん歌詞として)が、学校支配からの卒業(自由)を歌ったが、学校支配がどういうことなのかを理解しないまま逃げるように卒業するなら、逃げた先でもまた支配にさいなまれるだろう。
彼氏からただ逃げるなら、家族、会社からただ逃げるならば得るものは仮初め自由であり、不自由感(生きづらい)を際限なく繰り返すのではないか。
○○を理解して、何故自分が不自由を感じているのかを識ったうえで得る新たな自由を得るため次のステップに移ることを成長と呼ぶのかもしれない。

さて、彼氏、家族、学校、会社etcならそこから離れることも可能である。
これが社会となるとどうなるのか。
もちろん村社会が不自由(生きづらい)なので、引っ越しましたは可能だろう。
さらに日本社会が生きづらいので、外国の社会に移りました、ということは可能である。
しかし、資本主義社会から、、、現代社会から、、、となるとキリがない。
理解しようとしても複雑すぎて何がなにやらとなるのがオチだろう。
そしてやはり最後は人間社会からとなってしまう。
人間社会の一員からの離脱は不可能だよな。(仙人を除く)
唯一の離脱は死ぬことになる。
こうなるともう「不自由(生きづらい)」「自由」ではなくなってしまう。
ただ、ここまできてもやはり「○○からの自由」は同じではないかと思うわけ。
「人間(社会)からの自由」もやはり、人間とは何かを理解しなければ、人間から自由になれない。
人間とは何か、なんて困難すぎて解らないとなるのかもしれないが、やはりロジックとしてはそうなる。
まあ多くはそこまで至らないのだけど。
妥協するか、ある程度で納得するか、そも不自由(生きづらさ)を感じないか。

でもね、「人間からの自由」が困難だから「死にたい」まで感じることができる人は逆にチャンスだと思うのさ。
もしかしたら「人間からの自由」を得られるかもしれないのだから。
むしろ「人間からの自由」の扉までいきついた選ばれた人なのかもしれないのだから。
死にたい、から、死ぬんじゃなく、選ばれた人として「人間からの自由」がどういうことなのかを追求し、中途半端に不自由で中途半端に自由な凡人のボクに教えておくれ。
などと甘えるんじゃなくて、自ら人間を理解する努力を続ければボクもまた「人間からの自由」に至ることを信じて生きていこう。



※ロジックなどと書いてしまったがロジックとしては破綻しているんだろうねぇ^^;

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