ほんとに私は私で、心はひとつか?@死にたい

と、いうような脳科学者による講演会があった。
多くの人は、私は誰でもない私だし、そう思っている心もひとつだけど本当にそうなのか?という内容だったのさ。
心ってのは、個々の意志とか欲望とか感情etcとかの個の意識だよね。
まあ漠然と私の心は私のもので、私の意識だと確認することもなく思っている。
けどね、脳科学からすると結構あやふやでそれほど確定的でもなさそうなのよ。
つまり、普段意識しているほど「心はひとつ」でもないということ。

たとえばこんな感じ。

黄色のジュースと青色のジュースを用意します。
黄色のジュースには舌の感覚ではわからないほど少量の甘みをつけます。
飲んだうえで選んでもらうのですが、多くは脳の味覚野が反応して黄色を選びます。
でも選んだ人は黄色という色が好ましいとして黄色を選んだといいます。
全く同じ色のジュースを用意します。
今度は青色のジュースに舌ではわからないほどの甘みをつけ、どちらかを選んでもらいます。
脳は先程と同様、味覚野が反応して青色ジュースを選ぶのですが、選んだ理由を今度は「黄色が毒々しい」と答えるのです。
全く同じ色なのに、「心」は矛盾した反応をします。割にいい加減、笑。

他の例でいけば、
左脳と右脳をつなぐ脳梁という部分を切り離した手術をした患者の右耳(左脳)に「将来なにになりたいか?」と訊くと「作家」と応え、左耳(右脳)に訊くと「カーレーサー」と応えたという例。何かになりたい、とうのは「心」の声なのだけど、ひとつの人格のなかで違ってくる。
またまた、カナダで暮らす脳の一部を共有する一卵性(全く同じDNA)のシャム双生児(生育環境も全く同じ)は、食べ物の好き嫌いが違えば性格も陽気と内気で違う。つまり「心」のあり方が違うというの。
では、心は脳のどこかにあるかといえば、ガンによって脳の一部を切削する手術をするのだけど、脳のどの部分を切削しても「心」はなくならないということも分かっている。
つまり心はどこにあって、いくつあるかもわからない、というのが脳科学の答え(多分)。

昔、「我思う故に我あり」とあらゆるものの存在を疑っていっても、疑っている自分はいる、と考えたデカルトも「心はひとつ」で、左脳と右脳の中心にある松果体という部分にあるとしたが、手術で松果体を切削した患者の意識「心」がなくなることはなかった、と話されたな。現代の脳科学ではデカルトの考えは支持されないらしい。
じゃ、脳科学で心はどこにある、とか、そもそも心とは何?といわれても解らないらしいのだけどやはり「心」はある、ことは否定しようがないよな。

こんなことから、心はどこにあるかわからないけど一人のなかでいくつもある、として講演では、ひとつの国家で例えられたの。
どこでもいいんだけどさ、例えば日本から韓国をみているとムン君の声が一番大きくそれを「韓国」としてしまいがちだけど、韓国のなかの民はムン君とは違ういろいろな考えを持っていて、けっして韓国として一括りにできるものではない、と同じようなものだというのさ。
つまりね、一人の心もそのとき一番大きな声(心)が私の全てと思いがちだけど、見にくいけれどその声の奥にはいくつも違う声(心)があるという例えね。
実はこの講演は「自殺予防」をテーマにしたものだからなんだけど、今、対峙している人は「死にたい」が一番大きな声(心)だとしてもその声の向こうには、聴こえにくくても別の多くの声(心)がある。それを知っていることで「死にたい」と言う人への対応が変わってくるのではないか、というお話だったわけ。
傾聴者としては、「死にたい」という心に独占され、沈没させられたそれ以外の心のサルベージするように聴く、というところ考えればおもしろいと思った次第。

心がどこにあるか解らないってことだけど、前にNHKでタモリと山中さんがやっていた身体の神秘みたいなドキュメンタリーを思い出すと、脳を含めて身体のすべての細胞から心は構成されている気もするね。
講演のなかでは身体の全パーツは「生きたがっている」と話されたんだけど、そうだとすると「死にたい」という心と「生きたがっている」身体は齟齬を生じているわけだな。
身体と心がシンクロしていれば「生きたい」という同じベクトルで心はあるのだけど、まったく逆のベクトルになっちまうのは、心が身体以外のなにかに影響されていると考えられないか。
傾聴からの実感でいけば、多くは人間関係だろうし環境なんだろうねぇ。
身体と素直に同調する心が、周囲の人間関係(環境)に影響をあたえなければ問題ないのだけど、必ずしもそうはならない。私のなかでは身体と心が同調しているのに、人間関係に不具を生じるなんてことはままある。現代社会は複雑だし許容範囲が狭いからねぇ。
(まあ、皆がそれぞれ個性的な身体にシンクロした心を発揮しだすと統制がとれなくなるってことがあるかもしれないのだけど。)
逆に心が無理に人間関係に同調しだすと、精神(心)が壊れだし、そこから身体に不具を生じるってのもやはり多いよね。現代社会ではね。

それにしても、やはり心は一つだと感じるのはデフォなんだろうね。
それでうまくいけば、それの状態のほうが楽だし何の問題もない。
「心はいっぱいある」ってことは、身体と心が同調してうまくいっているときには意識する必要はないけれど、身体に不具を生じはじめたときには敢えて考えるのは有用なんだろうね。
傾聴では話し手の奥底に沈んだ心をサルベージと書いたけど、傾聴でなく「自分」だけであっても、自らを俯瞰して一番大きな声(心)に隠された心の声を自ら聴き出すこともできるかもね\(^o^)/


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