鳥屋と傾聴屋と

 鳥屋といってもペットショップでも焼鳥屋ではなく、鳥を専門に写真に写す人のことである。
 森でも街なかの公園でも大きなカメラに長いレンズをつけて歩き回っている人を見かけることがあると思うけど、そうした人の多くは鳥を撮影を目的とする「鳥屋」さん。
 おなじように蝶を専門に写す人を蝶屋さん、花を写す人は花屋さんかな?
 いずれにしても鳥が好き、蝶が好き、花が好き、、がベースなんだろうと思う。
 
 ボクも最近「にわか鳥屋」と名乗って鳥を撮っている。
 というのも、所有しているなんちゃって望遠レンズでなんとか、それらしく鳥を写せることが解ったこともあるし、もともと鳥を含め動物も好きということもある。
 鳥なんかは動作が愛らしいかったり、色や容姿もバラエティにとんでいるので写欲をそそる。
 で、ここのところ続けざまに写真を撮るために鳥を探している。少しづつ撮れた鳥の種類が多くなると、さらに別の種類の鳥に出会って写真を撮りたくなる。珍しい鳥にも出会いたくなりネットで調べたりするわけだ。
 ネットでも多くの鳥屋さんが写真をupしていて眺めているだけで楽しかったりする。鳥は大きく鮮明に写されているし、そう写すように努力しているようである。
 そのように写された鳥の撮影場所が近所だったりするとウズウズしてきたりする。
 おぉ庄内緑地公園で毎日オオタカと出会って撮っている人がいるぞ、矢作川にヤマセミがいるんだぁ、、すごいな、行ってみようかな、、みたいな。

 長いレンズをカメラにつけっぱなしにして鳥を追いかける自分がいた。鳥だけを追いかけている。あれ?自分は鳥屋だったっけ?とふと立ち止まる。
 これまで生きてきた感覚を研ぎ澄まし、たとえば誰もが見逃してしまう風景でも物語を見出し写真を撮ってきたはずではなかったのか?
 鳥も写すけど鳥屋ではなかったはずだった。
 鳥そのものよりも鳥がいる風景を撮ってきたはずだ。
 心象がたまたま鳥のいる風景だったはず。

 石ころひとつでも、枯れ葉の一葉でも何か光るものを見出そうとして写真として切り取ってきた。で、あるはずなのに、にわか鳥屋となったボクは、ただ鳥をだけを探しただ鳥だけを写そうとしている。たとえ切り取るのが鳥でも、レア鳥が撮れればいい、、、ではなかったはずだ。
 何故こうなったのか。
 なんだろう?体調か?慣れか?心がときめく風景がなかったのか?いろいろな要素があるかもしれないが、解らない。
 いつも自分の感覚を研ぎ澄ましていないと、何気ない風景から物語を見出すことの持続は難しいのだろう、と今更思う。

 さて傾聴である。
 これまで積極的にかなりの数をこなしてきた。
 とにかく経験を積みたいということはまず第一にある。
 それは必要だと思っている。
 しかし、一方でどこかで特別なケースを待っていないだろうか?
 始めて出会うケースを期待していないか?
 上手くクリアに撮影することを目指していないか?
 クリーンな傾聴の自己満足を欲していないか?
 鳥だけを探すようにその周囲の気づかない風景を見落としていないか?
 ちっぽけで何気ない言葉の奥に潜む大切な風景を聴き落としていないだろうか?
 見慣れた雀のその時にしか見せない何気ない表情を見落とすように。
 うるさいだけのカラスを観なくなるように。

 ボクは鳥屋でも傾聴屋でもなかったはずである。
 そこに流されかけて心身の具合を崩している。
 まずは心身の調子を整えることからやり直そうかな・・・
 

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