見出し画像

取り替え不可能な人生のための哲学ーミニ読書感想『訂正する力』(東浩紀さん)

東浩紀さんの『訂正する力』(朝日新書、2023年10月30日初版発行)が学びになりました。今までの自分は間違っていたかもしれない、至らなかったかもしれない。そう認める訂正の力。歴史修正主義とは異なる訂正のスタンス。それは、固有で取り替えの効かない人生を生きるために必要だと分りました。


訂正と聞いて、いいイメージは浮かばない。なるべくなら、間違いのない方が良いとつい思ってしまう。そして、訂正は修正と似ている。訂正主義と書くと歴史修正主義を思い浮かべてしまいますが、両者は全く異なると著者は強調します。

訂正する力は歴史修正主義とは異なるものです。本書はけっして、過去を都合よく修正するのが大事だと主張する本ではありません。訂正する力は、過去を記憶し、訂正するために謝罪する力です。歴史修正主義は過去を忘却するもので、訂正もしなければ謝罪もしません。

『訂正する力』p60

訂正には、謝罪が伴う。訂正は、過去を忘却するのではなく過去を記憶する。別のパートでは「再解釈」と表現されます。

できるのは、そういう過去の歴史を踏まえたうえで、いまの社会状況に照らし、真理という概念をあらためて使うとすればこういう再解釈が有効なのではないか、という「訂正」の提案でしかない。そうやって未来に進みます。
 つまり、文系の知とは、本質的に「訂正の知」なのです。だからぼくたちは、21世紀になっても「プラトンはじつは……と言っていた」「マルクスはじつは……と言っていた」と表現をするのですね。

『訂正する力』p113

噛み砕いた言い方をすれば、訂正とは「じつは……だった」と釈明する行為である。ここにひとこと補うとすれば「ごめん、じつは……だった」になるでしょう。歴史修正主義も「じつは」を語りますが、その接頭・接尾は「ちがうよ」とか「いや」になる。それは、過去を誤りだと切って捨てて、決して謝ることのないスタンスです。でも訂正は「ごめん」と言う。直すと同時に謝る振る舞いである。

この訂正がなぜ必要なのか?それは、人生は取り替えが効かないからです。

たしかに交換の思想はひとを自由にしてくれます。なにもかも「チェンジ」すればいいのですから。
 けれども、それだけで人生を最後まで快適にすごすことができるかといえば、やはり難しいと思います。肝心のぼくたちの身体そのものが交換できないからです。いくら周囲の環境を交換し続けたとしても、だれもが自分自身とはずっとつきあっていくしかない。自分を「チェンジ」するわけにはいかない。

『訂正する力』p168

ぼくたちの身体そのものは交換できない。さまざまな物事や考え方、人間関係さえも「リセット」「チェンジ」できるけれども、自分自身はやり直せない。なしにはできない。

だから、訂正する。過去あったことは過去あったことで取り消せないけれど、それを未来には引き継がないと宣言する。過去を認め、それでも生きていくための新しい物語を構想する。

ここでの「身体」は、人生に置き換えていいと思います。自分はさらに、「家族」も当てはめ可能かなと思いました(もちろん、望まない家族関係を断ち切りたいと思う人を否定したいわけではないです。家族関係はリセット不可との意味ではなくて)

自分の子どもに障害があると分かった時、当然の事実として浮かんできたのは「それでも子どもを別の誰かと取り替えたいとは思わない」ということでした。障害のない第三の子どもが目の前に連れてこられ「取り替えますか?」と聞かれても、絶対に断る。我が子はたったひとり、目の前の我が子以外、換えが効かない。

今までの自分に、障害への差別意識がゼロだったとは言えない。でも、そんな過去をリセットできはしない。そして現実もリセットできない。その中でできるのは、過去の自分は間違っていたと認め、我が子と歩むための思考・思想を醸成すること。つまりそれが、訂正だと思うのです。

もしも訂正が許されないとすれば、差別意識のあった親は、我が子を差別し、虐げ、真っ暗闇の人生を歩むほかない。それは失敗の許されない社会、過ちの許されない社会ともいえそうです。

訂正とは、リセットできない人生をそれでも生きるための希望の哲学である。

もうひとつ、著者は訂正に紐づく概念として「固有名」というのを提示する。これはネームバリューとか市場価値ではなく、「取り替え不可能な存在」としての名前を意味する。著者は「娘の絵」というメタファーを示します。

たとえば子どもの絵。ぼくら自宅に娘が小学生のころに描いた絵を飾っているのですが、これには芸術的な価値はまったくないでしょう。にもかかわらずぼくには価値がある。なぜか。それは娘が描いたからです。

『訂正する力』128-129

訂正が起きる・許されるのは、その人が置き換え不可能だからです。それが一般的・市場的には無価値でも「私にとっての価値」を持つ。だからこそ、過ちを指摘できるし、受け入れられる。

私は、我が子という固有名の存在と対峙し、人生を顧みた。訂正を尊重する人生は、自分の人生も絶えず組み直し、相手が組み直す人生も、そっと見守る生き方なのでしょう。

この記事が参加している募集

推薦図書

万が一いただけたサポートは、本や本屋さんの収益に回るように活用したいと思います。