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償いは今も可能なのかー読書感想「夜の谷を行く」(桐野夏生さん)

罪を償うことは可能なのか。現代においても可能なのか。桐野夏生さん「夜の谷を行く」を読んで問いがぐるぐる頭を回っている。1970年代の「連合赤軍事件」で凄惨なリンチに加担し、服役を終えた主人公の女性。なるべくひっそりと暮らそうとしていた2011年、さまざまな転機が訪れる。過去が追いかけるようにやってくる物語は、読んでいるこちらが苦しくなる。でも目が離せなかった。(文春文庫、2020年3月10日初版)

根幹は女性差別

本書の根幹は「女性差別」にあることはおさえておきたい。解説まで含めるとクリアになるけれど、本書の登場人物や事件のかなりの部分は実話に基づいている。中でもポイントは、主犯格とされた人物に下された判決文。そこには女性蔑視の考えありありと書き込まれていた。

 「被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた。(p79)

本書は、この女性差別の下に「埋もれていたもの」を掘り起こそうとする。裁判長が「女性特有の」問題で起きたと断じた事件には、実は「男たち」によって隠されたある「事実」があった。それが何で、どうやって明らかになるかはまさに物語の核であり、触れないようにしたい。

ここで書き出してみたいのは「償い」の問題だ。


レールを外れたらおしまい

主人公・西田啓子は事件の一端を担い、数々の罪状で裁かれた。しかしいまは都会のすみで一人暮らし。事件の心労で両親は亡くなり、親戚も離れる中、かろうじて繋がりを保っていた妹和子の娘佳絵が結婚することになった。

佳絵には自身の過去は語っていなかった。そのまま語るつもりはなかったのだけれど、あるトラブルで語らざるを得なくなる。すると佳絵はすぐにスマホを取り出して、事件を検索した。「よかったね」と続けた。

 「今だったら、大変だったと思うよ。ネットに全部晒されて、お母さんやあたしの名前や顔写真とかも公開されるかもしれない。何かあれば検索されて、いつまでも言われるんだよ。時効がないの」(p158)

これは「ネット時代に罪は消えない」という問題だけではない。それもあるけれど、もっと引っ掛かりを感じたのだ。佳絵の他の言葉も拾いたい。

「(中略)おばちゃんは、助かってるよ。平気で実名で生きてるし、お母さんだって離婚はしたけど、西田啓子の妹だの何だのって、悪口は聞いたことないもん。おばちゃんも、それほどの大悪人ってわけでもなさそうじゃない」(p159)

最も印象深いのは、啓子が「もしも佳絵の夫がこの話を聞いて怒るなら、そんな男、逆に願い下げじゃない」と言った後の一言だ。

 「おばちゃんの時代は、それで通用してきたんだと思うけど、今はそうはいかない。そんなに甘い世界じゃないよ。一度レールを外れたら、おしまいなの。二度と元に戻れないのよ」(p161)

佳絵の言葉は、根深い部分で、現在における償いの難しさを示している。

いまは「一度レールを外れたらおしまい」の世界。その指摘に深く頷かざるを得ない。二度と戻れない、やり直しが効かない。そういう不安定さがこの社会の前提にあることに気付かされる。

だからこそ過剰なほど「今」が大事になってしまう。過去でも未来でもなく現在が。だから佳絵は、啓子が何をしたか、どう償ったかよりも「それほどの大悪人ってわけじゃなさそう」という目の前の印象を信じようとする。身近な母の様子、評判で啓子の人間性を即断しようとする。

インターネットは過去を今に「引き込む」ツールとして威力を発揮する。償い終わった過去の罪だとしても、画面上に表示されるのはいつでも、今に生きる情報だ。過去はいつまでも参照可能なツールとして再利用されて、過去を過去として本当に扱ってくれる機会は驚くほど少なくなった。

これらが複合的に重なって「償い」を不可能にしてるのではないか。

佳絵の言葉には女性差別の影を見ることもできる。なぜ、啓子の過去にうだうだ言う夫を簡単に見限れないのか。「レールを外れたらおしまい」の裏側には「女性は」という主語が、佳絵の現状認識があるように思える。

だとすれば、償うことは「男性より女性の方が難しい」という側面もあるのだろうか。「男性の方が償ったことにできる」という問題も孕んでいるのだろうか。

桐野夏生さんは、こうした根深い問題にたじろがず、じっと踏ん張って物語を紡いでいるように感じられた。解説を担当した、連合赤軍事件の元被告側弁護人・大谷恭子さんも「あの凄惨な事実と事件から、よくぞここを拾ってくれた」(p325)と激賞している。ぐんと重たい読書体験のできる素晴らしい本だった。


次におすすめする本は

もともとこちらを読んだから桐野夏生作品をさらに読みたくなったのですが、最新長編「日没」(岩波書店)をおすすめします。ポリコレに反する作品を書いたら収容所にいれられる世界。過去をここまで丁寧に掘り起こす桐野さんが、未来を描いたらどうなるか。やはり面白いです。


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