見出し画像

親を楽にする「仮の理解」という方法ーミニ読書感想『「発達障害」だけで子どもを見ないでその子の「不可解」を理解する』(田中康雄さん)

児童精神科医・田中康雄さんの『「発達障害」だけで子どもを見ないでその子の「不可解」を理解する』(SB新書、2019年12月15日初版)が勉強になりました。タイトルは少し長いですが、大切な願いが込められている。

それは、診断にこだわらず、その子の気持ちや特性を尊重する「仮の理解」を試みること。この仮の理解という考え方は、発達障害のある(あるいは可能性がある)子の親をとても楽にします。


著者の言う「仮の理解」とは何か。たとえば、幼稚園ですぐに友達を叩いてしまう子がいるとする。著者は、その子が何に困り、どういう理由で叩いてしまうのか少しずつほぐしていく。話を聞いたり、状況を分析したりして「この子は今は構ってほしくないのにノーと言えなくて叩いているのかな」といった「仮説」を組み立てます。

この仮説は確実ではない。実際には「○○ちゃんが気になってるから叩いてしまう」なのかもしれない。別の角度から言うと、この仮説は発達障害の診断ではない。あくまで現状を見通しやすくするためのフレームでしかない。

しかし逆に言うと、診断はなくてもフレームは立てることができるのです。

著者は「仮の理解」を試みる理由を次のように語ります。

 こんなふうに、子どものわかりにくい言動に悩み、途方に暮れる親御さんと一緒になって、どうしたらその子の思いに近づけるかをあれこれ考え、子どもの小さな変化を親に伝え、変わらない実情は共に耐えて、それでも明日に期待がもてるように応援していく。僕が日々診察で行っているのは、そういうことです。

『「発達障害」だけで子どもを見ないでその子の「不可解」を理解する』p18

「仮の理解」は、叩くのような「問題行動」を即時やめさせるほどの効果はない。ついつい禁止してしまいたくもなりますが。でも、問題行動につながる根っこ、その子の気持ちに近付き、「小さな変化」をその子自身から引き出せる可能性がある。

もちろん「変わらない実情」が続く可能性もある。そうした時には耐える必要があると、著者は暗示しているように思います。そして仮の理解を修正し、よりよい理解に繋げていく。

発達障害のある子の親が最初に囚われるのは「この子は本当に障害があるのか」「いや、やっぱり普通なんじゃないか」というぐるぐるした問答ではないでしょうか。これは「仮の理解」とは対極の「確定的な理解」を求める気持ちです。障害があるのかないのか、はっきりしてほしい。可能なら「ないですよ」と誰かに言ってほしい。

でも、この考えに絡め取られると、「この行動があるから障害だ」「いや普通だ」という表面的現象に拘泥し、いつまで経っても「なぜこの子はこういう行動しているのかな」という内面に到達できない。「仮の理解」は、そうした閉塞を打開し「障害があるかは分からないけど、ひとまずこういう気持ちで行動してるのかな」という前進につなげてくれる。

後半では、「仮の理解」はスウェーデンのクリストファー・ギルバーグ教授が提唱する「早期兆候症候群(ESSENCE)」と親和性があることが示されます。

 これは、幼い子どもたちは早期に確定診断することは難しいけれど、早くからその子の状態に沿った丁寧な支援は行なえる、という考え方です。例えば発達の早い段階で、動きがとても多い、言葉が出にくい、偏食が激しい……といった姿が見えてくる子どもがいたら、発達障害の有無の判断や診断の命名を急がずに、その子の心配な面にじっくりと丁寧にかかわっていきましょう、という考え方です。

『「発達障害」だけで子どもを見ないでその子の「不可解」を理解する』p212

仮の理解は、確定的な理解を「棚上げ」することで、「じゃあ、今この子のために何ができるだろう?」というステップに進めます。いわゆる早期療育。こうなると、親は悶々と悩む段階から、その子のためにできることをやる行動の段階に移行できる。これが、親が「楽になる」ということです。

著者がここで示しているのは答えではなく、問題はありつつも日々を生きていく方法です。「それでもそこそこ楽しく生きる」ための技法です。これは、ネガティヴ・ケイパビリティとも言えるかもしれません。私は親として著者の考えに出会えて幸いでした。

この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

万が一いただけたサポートは、本や本屋さんの収益に回るように活用したいと思います。