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繰り返しと憂鬱

こちらもスポ鬱に送った内容をベースに膨らませてみる。

繰り返しが持つイメージ

個人的に、繰り返し≒作業というイメージがまず浮かぶ。同時にすごく受け身なオーラを感じる。やらされてる感。すでに憂鬱。他方で、トライ&エラーという言葉に言い換えると、主体性が現れ、急に前向きな言葉になる。

学生時代から色んな繰り返しをしてきた。
幼少期の繰り返しで思い出されるのは、小学生の時に通っていた公文式のプリント。毎週束のように算数のプリントの宿題が出た。今考えたら同じような問題を何十枚もやっていたのに、嫌だった記憶はない。当時の自分にどんな思いでやっていたか聞いてみたい。

また、小学生から高校まで打ち込んでいたサッカーでは、「組織」での繰り返しに憂鬱を感じている。
また、社会人になってからは、仕事はもちろん、趣味で始めたマラソンも繰り返しに満ちている。

スポーツや仕事など様々な事象のなかにある、「繰り返し」にどんな違いがあり、結果として自分の人生に何をもたらしているのか考えてみたい。

『熟達論』

このテーマを考えるきっかけになったのが、元陸上選手の為末大さんの『熟達論』である。

為末さん曰く、物事を熟達するには、5段階あると。遊→型→観→心→空の順。
繰り返しは『型』の部分に当てはまる。
繰り返しの目的は無意識的に出来るようになること。つまり、漢字の書き取りも、計算練習も、一流プレイヤーの真似も、繰り返し=『型』のプロセスそのものである。

マラソンと繰り返し

私は趣味でマラソンをやっている。
マラソンを始めてみて感じたのは、陸上競技は究極の繰り返しだという事だ。マラソンは、手足を繰り返し動かし続け、42.195km先のゴールを目指す。

当然練習も繰り返しが多い。毎日のジョギングに始まり、ドリルや同じ距離を何度も繰り返すインターバル走、一定のペースや時間で走り続けるペース走や距離走など。

一つひとつの動作の質を高め、1秒でも早くゴールする。
繰り返しを積み重ねていくことで、前の自分を超えていく。
その基準がタイムという万人に共通の基準で可視化される。
前のnoteでも書いたが、その点を自分は魅力に感じている。

サッカーと繰り返し

サッカーはマラソンと違い、チームとしての勝利を追い求めるスポーツである。「個」としての日々の練習はもちろん大事だが、試合ではチームという「組織」でも様々な事を繰り返していく。もっとマクロな視点でみると、プロは1年というシーズン単位でも多くのことを繰り返している。

最近のサッカーを見ていて感じるのは「組織」としての繰り返しにフォーカスされている点である。ここでいう繰り返しは、再現性という言葉に言い換えられるかもしれない。

サッカーにおける「組織」の繰り返し

5レーンという言葉を使って戦術が語られるようになってから、サッカーとチームスポーツに繰り返し(≒再現性)が要求されるようになったと感じる。

プレー原則がチームごとに決められ、攻撃/守備時の個の役割が明確化され、原則に個が最適化されていく。
指導者は事前に相手チームのことを分析し、相手の特徴を消す/上回るような戦術を試合前にプランニングし、選手にプレー原則を叩き込む。試合が始まると組織という生き物が一つの生き物のように動いていく。それを実況や解説が分析する。

それを解説する本が、サッカーの観戦ガイドというような建付けで市中に出回り、観客に構造的にサッカーを見るように要請する。

その結果、何が起きたのか?
私は10番タイプの選手、いわゆる『ファンタジスタ』が消えたと感じる。
ジダンやピルロ、ロナウジーニョのような、「次はどんなプレーをするのだろう」見ている側をワクワクさせるファンタジスタが減った。Jリーグでい、遠藤保仁や小野伸二のような選手が当てはまると感じる。

意外性や創造性の重要性が低くなり、原則通りに高いレベルでプレーできる選手が重宝されるようになったからなのではないだろうか?

仕事と繰り返し

営業マンで成果を残してる人は、自分の「必勝パターン」をもっている人が多いと考える。「必勝パターン」は、当人からすると「型」ではなく、自分の努力や試行錯誤(≒繰り返し)の賜物であると考えている人が多いと感じる。俺だからできる、俺のやり方は他の誰も真似できない。だから教えられないと。

昭和臭いかな…

しかし、会社は利益を最大化するために「必勝パターン」を他の人がやっても再現できるようにノウハウ化しようと試みる。
その結果始まるのが、KPIやマニュアル、SFAなどのツールを使って社員を管理することであると考える。『型』の登場です。

書店に並ぶ多くの自己啓発本やビジネス書は、成功者の『型』を自身が言語化し、あたかもそれを取り入れれば誰でも実践できるような錯覚を与えるものが多い。私もこれまでにこの手の本は何冊も手に取ったが、読後は「できた気」または「できるような気」がすることが多い。でも実際はどうだろう?
当たり前だが、これが本を読んで真似するだけでできるようになれば、世の中に業績不振で悩む会社や個人はいないはずだ。

「繰り返しの憂鬱」の正体

ここまで、様々な場面で発生している繰り返しを見てきたが、私が繰り返しに対して感じている憂鬱の正体は何なのだろうか?

『型』の支配への抵抗

自分の存在価値は、『型』が支配する場では最大限発揮されないと考えている自分がいる。その一方、世の中はあらゆる場面でテクノロジーが進歩し、あらゆるものが数値化され、仕組み化されていく。そうすると、「一か八か」よりも「より可能性の高いもの」を求めるようになる。それは個人に対しても同じで、誰が出ても、誰が担当しても同じパフォーマンスを求めるようになる。その方がサステイナブルな組織を作っていく上では楽だ。

ただ、人には個性があり得意な事と苦手なことがあることも忘れてはいけない。自分は個人の可能性を信じたいし、他の人に簡単に真似されるような人間にはなりたくない。人間はどこまでいってもミステリアスな存在だ。どんな場面でもそれを証明できる人になりたいと思っている。これからも組織の『型』からはみ出る人間でいたいと思う。

最後に

2000字以上の文章を書いたのは久しぶり。
読みづらい、意味不明な箇所があるのは、素人の駄文なので笑って許してほしい。
現在読んでいる「暇と退屈の倫理学」もこの内容に通じるところがあり、更に思考を深められると感じている。また別の機会で再考することにする。
一旦失礼します。

最後までお付き合い頂き感謝申し上げます。