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ハードボイルド仏教ランド

私は昔から皮肉屋なところがあって、物事をストレートに表現するよりも、当てこするような嫌な形で言語化しがちです。そういうものは、話し言葉で相手との関係性があってこそ効果的だと思うのですが、書き言葉でも(あまり通じないだろうなと思いつつも)使ってしまいます。

耳触りの良いだけの言葉は読み飛ばされて終わりですからね。多少恨まれたり、嫌がられても心に残してもらわなくては意味がない、と考えているところはあります。

今回は大分嫌な話をします。ダライ・ラマについてどうしようもない記事を読んでしまったからです。おそらく日本で仏教徒を自認する人にとっては聞きたくない話でしょう。しかし、時にははっきり言わなくては始まらないこともあるのです。

何度か軽く触れていますが、日本に伝わっていて普通に「仏教」と認識されているお経の大半は、開祖であるゴータマ・シッダッタが説いた内容とはかけ離れた、全く別の人間の作った創作話です。これはまともな仏教学を学んだ人であれば、誰もが共有している学問的な常識です。

だからそれを元にした日本の仏教の祖師たちの思想も、正法を伝えているという立場で語るのは無理筋です。しかし、それはどうでも良いことでもあるのです。思想が、もう少し広く言えば言葉がどのように機能するかは、語られた文脈次第です。祖師たちの主張や思想がたとえ仏祖とかけ離れたものであったとしても、現代の人間によって有効な形で語られるのであれば、その価値はちゃんと人々の心に届くし役に立つでしょう。

しかし、現代の人間がその努力を怠るのであれば、それらは「死んだ昔ばなし」です。一部の好事家以外誰も見向きもしません。ぜひ彼らの思想を信奉する人々は伝える努力をしてほしいと思います。日本人にとっては遥か古代のインド人の思想よりも理解しやすく、役に立つ可能性を持っているのですから。

一方近代仏教学と、最近入ってきたテーラワーダ仏教の影響で、いわゆる原始仏典を直接学ぼうという人も多いです。ただし、この記事↓

でも書いたようにゴータマの思想そのものを理解するのはほとんど不可能です。

2600年(これも異説あり最近の学説では2500年と言われることが多いです)も前の人間の説いたことなどもはや伝説レベルで、日本で言えば古事記の領域の話なのです。だからニカーヤ(いわゆる原始仏典)でもなんでも、そんなものを全て事実のように扱うことは常識的に無理というものでしょう。

もっとも、ソクラテスも孔子も、釈迦とほぼ同時代の人間ですから、そういった古い時代の偉人の言葉が現代においても機能するというのは、類のないことではないのです。

しかし、現代人がソクラテスについて学ぼうとしたら、まずギリシャ哲学や周辺文化についてある程度学ぶでしょう。そして大学でギリシャ語を学びつつ専門家について学んでいる人でない限り、一般人でギリシャ哲学についてそれなりにでも「わかった」なんて言う人はまずいないと思います。

孔子についても同様でしょう。ただこちらは古来から日本の文化にも大きく影響を与えて、ちょっと前までは論語を引用して何かを語る実業家も居たくらいですから、なんだかんだで知っていることも色々とある。それでもちょっと学んだくらいで、漢文もわからず論語が分かったなんて言う人はいないでしょう。

だから中村元の訳した日本語の「原始仏典」をちょろっと読んだくらいで「ブッダの言いたかったこと」が現代日本人に「わかる」なんてことは絶対にありません。わかったと思ってもそれは勘違い以外の何者でもありません。基本的にわかるわけがないことなのです。

ではどうすれば良いか。
信頼できるお坊さんに教えて貰えば良い?

古代インドの思想のことなんて何も知らないに等しいのに、そのお坊さんが「信頼できる」なんてどう判断するのでしょう。

冷静に考えれば、日本で仏教を学ぶと言うことには常にこのような問題がつきまとうのです。全く見当はずれの、時に真理とは正反対の教えを「仏教」としていただいている可能性は常にあるのです。だからこそ頭から信じるのではなく、常に疑い、吟味し、批判し、理解しなくてはならないのです。

にも関わらず、お坊さんの言うことにしろ学者の言うことにしろ頭から信じてしまっている人の、なんと多いことか。彼らがまったく見当はずれのことを平気で語り、その間違いに気づいていない、という可能性をまるで考えていないのです。

ダライ・ラマの件もありますが、誰も彼も指導者に頼りすぎだと思います。彼も含めあらゆる宗教的指導者は人間である限り完全ではあり得ません。たとえチベットの転生ラマだろうが、テーラワーダの高僧だろうが、宗門の祖師だろうが正しいとは限りません。完全なのは「(歴史上実在した人物ではなく理念上の)ブッダ」のみです。そしてそんなものは個々の人間の中に観念的に存在するに過ぎず、実在はしないのです。

疑って疑って疑い尽くして、それでも疑いえないもの。自分が頭だけでなく体験して納得して理解して、それを検討して更に疑ってそれでも疑い尽くせないもの。それに仮に名前をつけるのであれば法(真理、ダンマ)であり「悟り」です。そしてそれを仏教と呼ぶか呼ばないかはその人の勝手でどうでも良いのです。

それでも、なんとなく誰かに頼りたい人にこの言葉を送ります。昔好きだった漫画のセリフです。

「立って歩け、前へ進め。あんたには立派な足がついてるじゃないか」


一つだけどうでも良いお話しですが、私はハルキストではありません。家族が好きで借りて『ノルウェイの森』と『海辺のカフカ』と『アフターダーク』を読んだことあるだけです。

長々と胡散臭い「お説教」を読んでいただきありがとうございました。

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