見出し画像

沖縄返還50年、私の沖縄 1971-1972

今年は沖縄返還から50年

今年は沖縄の返還<昭和47年(1972年)5月>から、50年とのこと。日本において歴史的な返還でしたが、私はこのことを鮮烈に覚えているのです。なぜなら、この直前の昭和47年3月まで沖縄に住んでいたからです。
父の転勤に伴い、私の沖縄行きが決まったのが前年昭和46年の4月ごろでした。当時の私はちょうど小学1年生でした。小学校への入学が決まった直後の「引っ越し」となり、当然、私は行きたくなく散々抵抗したようです。あまり覚えていませんが、泣きまくっていたと後に母に聞きました。

首里

家族が引っ越したのは、沖縄の首里のアパートです。アパートは大家さんがいて、その家族には同い年くらいのお子さんがおり、やがて私の遊び友達となりました。大家といっても、広い敷地に一軒家があり、その敷地内にアパートがあるといった感じでした。

そうそう、当時はアメリカ占領下でしたので、通貨はドル、自動車は右側通行でした。しかも沖縄に行くにはパスポートが必要だったのです。したがって必然的に私はアメリカに渡米したことになります。ですので、私は自分の自己紹介の時に「帰国子女です」と言っています。嘘じゃないもんね!

住んでいたアパートは守礼の門が近いところで、通った小学校も守礼の門の側の城西小学校です。
守礼の門は当時は本当に「門」しかありませんでした。その後、首里城が再建されましたが、残念ながら2019年に消失してしまったことは多くの方が記憶されていると思います。(幸いなことに復興は着々と進んでいるようですね。)

旧首里城守礼門

通学した城西小学校も、今では建て替えられて立派になっています。設計は建築家の原広司さんです。

城西小学校(沖縄)

この小学校は守礼の門の近くにあったのです。当時はまさにこんな感じでした。

守礼の門と城西小学校(昔)

また、この小学校のそばには、龍潭池があり、週末はここで父と釣りをしていました。

龍潭池 
https://4travel.jp/travelogue/11481284

コザ

週末は母と買い物に行くのが習慣になっていました。行き先は当時米軍基地のあったコザです。
ここには、大きなショッピングセンターがあったと記憶しているのですが、後に沖縄旅行をした際に、どうしても再訪したくて探したのですが、中々見つけることができませんでした。
やがて私の家族4人で旅行した際に妻がここではないか、と見つけてくれたのです。プラザハウスといいます。

プラザハウス 
https://feeljapan.net/okinawa/article/2020-01-21-10926/

このショッピングセンターはかなり古くからあるらしく、こんな写真も残っています。

プラザハウス(かなり昔) 
http://www.okinawainfo.net/puraza.htm

ここを家族で訪れた後、ホテルで私は家族の前で号泣していました。子供たちは変な親父、と思ったかもしれません。
私の母はもうその時亡くなっていましたから。

ひめゆりの塔

一年が経ち沖縄を離れることになりました。その頃には小学校にも馴染み友達もたくさんできていたので、私は帰ることに対してまたしても泣いて抵抗したようです。
結局、沖縄に行きたくないと言って泣き、今度は本土に帰りたくないと言って泣いたのでした。
母は最後、沖縄を離れるに際して、タクシーを一日借り切って島を一周するツアー(笑)に私を連れ出しました。
そして最後に連れて行ったくれたのが、ひめゆりの塔だったのです。母が何を思って私をここに連れて行ったのか、今となってはわかりません。ただ私の胸には沖縄が戦争で大変な目にあった、ということだけは幼心に深く刻まれることになりました。

そのことから、私が沖縄を訪れる時はいつも楽しく観光だけではなく深く厳粛な気持ちになるのです。

最後に

なにぶん50年も前のことで、しかも当時私は小1と幼かったので、覚えていることはこれくらいしかありません。
でも、返還直前の沖縄に住んでいたことは、貴重な経験だったと思っています。

最後に、父の仕事場を後に知りました。こちらの建設に携わっていたようです。
いやあ、立派な環境破壊だなと思いつつも、これがあっての今の自分なんだなと複雑な気持ちです。

平安座島 沖縄石油基地

その父も今はもういません。

追記:note 沖縄市観光物産振興協会 さんがコザについて書かれていました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?