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さて、なにから話し始めればいいのでしょうか。私はすこし体調がわるく、いまは深夜一時半、部屋の中はゴミだらけで、スピーカーからは跳亜さんによるカネコアヤノさんの『抱擁』のカバーが流れています。私の夜は満ちたりています。私の夜はうつくしい。

 今日は、キーツの詩を読みました。たくさんの死者たちが私の周りにあつまり、うつくしい組み鐘(チャイム)を創っている。そして世界のありさまというものも、またひとつのチャイムなのだという、そんなことを書いている詩を読みました。

 覚えがあります。私は誰もいない電車に一人座っているとき、空いている座席にひとり、またひとりと敬愛する詩人のビジョンを座らせることがあるのです。ええ、もちろんこれは私のイマージュ。けれど彼らのビジョンには実感があるのです。まるで今にでも話しかけ、新たな作品を書き上げてくれそうなほど。私は可笑しいのでしょうか。そうなのだと思います。

 しかし、事実、私には死者がいなければ生きていけなかったという弱さがあります。ひとりひとり、その名を親しく呼ぶことができる。彼らはすでに私の親しい友です。

宮沢賢治、小熊秀雄、リルケ、永瀬清子、立原道造、中原中也、森崎道安、三富朽葉、茨木のり子、石垣りん、やなせたかし、サトウハチロー、坂田寛夫、八木重吉、ブッシュ孝子、志樹逸馬、高村光太郎、ランボー、不可思議wonderboy、閑吟集の女性たち、万葉集の人びと……。

 名を呼ばれることが生きることであるとすれば、亡き人の名を呼ぶことはなんどでも彼らと出会いなおすことであるのかもしれません。いったい私たちは生きているうちになんど、本当の親しみを込めて名を呼ばれることがあるでしょう。作品を後世に残したい、という儚い希望のような願いは、そんな名を呼ばれることの稀少性を、私たちが知っていて、それでもなお名を、そして作品の一ふしを、こころから呼ばれ続けたいといういたましい願いなのかもしません。

 こころから紡ぐ、ということを考えています。うまく紡ぐ、ではないのです。決して、ちがうのです。こころから紡ぐ、ということを考えているのです。人生は一回しかないのでしょう。かりに輪廻転生ということがあったとしても、この私が生きている人生は一回きりで、もっと言ってしまうと今、は今しかない一回きりのものです。そんなかけがえない一瞬を傍目から巧く見えるように生きるなんて、どんな意味があるんでしょうか。すくなくとも私は違和感があります。なにが君の幸せ? なにをして喜ぶ? そんな声が聴こええてくるようで。

 ですから、私はこの、二度と繰り返されない今を記述するために、巧くなどということは考えたくないのです。私はいっしんに、ということを考えたいのです。そして、私はいっしんに書かれたことばを読みたいのです。悲しい時は悲しいと、嬉しい時は嬉しいと、気持ちいいときは気持ちいいと、不快なときは不快であると、一緒にいたいときは一緒にいたいと、こころから叫ぶために、私はこの星に産まれたのです。


星が光る
あるいても歩いてもくずれ落ちる砂の道を
照らしているひとつの灯りがある
あなたもみただろうかと歩いていく
わたしはすでに孤独をわすれ
あなたがたとともにこの道を進んでいく


 私の夜は満ち足りています。私の夜はうつくしい。それは死者たちがこころの底から記してくれたことばがあるから。私は彼らの名前を呼ぶことができる。心の底から、親しみを込めて。「月のひかりを わすれないで 坊や からだはあたたかい」そんな声が聴こえてきています。

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