文学に関する雑談

昨日チャンネル桜からあるお誘い、ダイレクトメールが届いた。お誘いというかお願いである。いきなりなんだ?という人や当チャンネルを全く知らない人に簡単に説明しよう。チャンネル桜とは政治系YouTubeチャンネルである。
「政治系?」この時点で、このページをさっと閉じた人がいるだろう。僕としては大変残念な事ではあるが仕方がないのである。自分だって相手から全然興味のない話をされたらたまらない。寛容の精神でもって去り行く読者の後ろ姿に小さく手を振るのである。
寛容の精神!誠に偉そうな口ぶりである。僕は自分の事を中々の皮肉屋だと正直言って思っているが、今この瞬間において、読者を見下した積りは一切無かった。これは間違いなく断言していい。ただ言葉を知らなかったのだ。一応物書きの端くれだったなら、頭の中をひねくり回してその時の感情を適切に表現した言葉を探しだすべきだろう。それを幾つも連ねて単に状況を説明するだけでは済まなくて、なんなら「こいつは言葉の魔術師、感性の細やかな男!」といった効果を狙う事だってやってみても良いのかしれない。ただ、この効果を狙おうと思ったら中々骨の折れる話である。当たり前の話だが、難しい単語を幾つも並べたって、小学生相手ならいざ知らずいい大人に対してなんのこけおどしにもなりはしない。やはり文章で勝負しなくては。
文章で勝負?どんな文章だったら勝負になるのか…。最近トーマスマンの「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」を読んでいるのだが、まずもって彼の鋭い感性にはあらためて驚かされる。どんな立派で破綻のない文章も素材がショボくては看板倒れになってしまうであろう事を彼は気付かせてくれる。
ああ、これでは駄目だ。まるで文章が通り一辺倒なのだ。こんな事は誰でも書けてしまう。一般論に過ぎないし、抽象論に過ぎないのだ。なにか落ち着いた具体例を引っ張って来なくては。
僕は抽象論を嫌う。抽象論を語れば説明した気になるし読者だって読んだ気になるのでお互いハッピーになれるのだが、いかんせん効果が乏しい。というのも、確かに抽象論には抽象論の良い所があって端的に全体を凝縮出来るし、作者の(あそこのあの部分にその理屈は既に述べていますよ〜といった)アリバイ作りにも貢献する訳なんだが、結局みんなして消化不良に陥ってしまうのがオチだ。みんなというのは作者、読者双方という意味である。読者は一方的に受け取る側なので、こちらの意図が伝わらなくても仕方がない。ただし、僕に言わせれば“伝えるに値する”意図を作者があらかじめ把握しているとする見方はちょっと傲慢である。仮に把握出来ていたとしても、その様な労せずしてあらかじめ意識に上っているものは、ある一側面から見たに過ぎない様なちゃちなものだとは言えまいか。その様な意図が始めから作者の念頭にあって抽象論を書いているのだろうが、本当は、書くという能動的行為を通じて集中が研ぎ澄まされた結果意図が洗練されるのであって、よって究極的には何を書くのか自分でも分からないものなのではないか。僕の今日の日記だってだいぶ話が逸れてしまった。いやいやいや、こんな徒然駄文になんの意味があるのかと思った事だろう。形式(小説、評論、詩などのジャンルを僕は意味する)とテーマと文体とストーリーとそれから何だ、文学的には他に何の型があるんだ?兎に角、上記のものが全て計算されて、それぞれの言葉通りの型でもって作られた作品は本当に素晴らしくうっとりするような芸術美だし、僕の徒然日記よりは遥かに称賛されるべきである。“初め”に作られたその“型”は確かに素晴らしい。人間の英知を集めようというその決意、努力、実行、結実。僕には遠い遠い存在だ。
しかしその“型”を再現しようとすると抽象論として、言い換えると出がらしとなって我々の目の前に姿を表すのだ。あぁ、残念な事にこの論評も実は一つの“型”に過ぎないのである。それは既に過去の偉い人が発見しており、僕は何処かでそれを聞きかじったに過ぎない。但し悪気はなかった。始めから“意図”していた訳ではないのだ。ただ良いものを書こうと思ったら“自然と”引き出された。僕がもっと跳ねっ返りの浮つき者だったら、奇妙奇天烈魔訶不思議のいまだお目にかかった事の無い様な奇抜な論評を繰り出せるのかもしれないが、多少なりとも読者に貢献したいのである。「これだ!」というだけの思い付きで書いてしまう事が僕にもある事はあるが、それが間違えているとは言えないまでも過去からの推薦にあやかった方がより確実だし、何より既に体感において実証済みである点が素晴らしい。
何の事を言っているのだと思った事だろう。(僕はよく、読者の心を読めているみたいな書きぶりをするがあまり気持ちの良いものではないだろうな)
山崎豊子の「華麗なる一族」とマンの「ブッデンブローク家の人々」がどうも似ているのだ。「華麗なる一族」を知った後で「ブッデンブローク家の人々」を読んだものだから、浅はかではあるがまたかと思ってしまった。ただし、ある一家の没落という一つの物語の“型”を山崎豊子か、マンか、それより以前の誰かがこれを確かに考案したのであった。人によってはこの型を「滅びの美学」と呼ぶ人もいる。少なくともマンは“生きた事実”を元に脚色を多少加えただけであって、だから滅びの美学という“抽象論”で賛美するのは間違えているのではないかと僕は想像するが、その事実を脚色した事によって他人から真似られやすい“型”の様相を帯びる結果になったのもまた事実であろう。その型に慣れた読者は、読んでいる途中に、少なくともストーリー面における感動については味わえなくなってしまうのである。本来の効果を見込めなくさしたのだから作家の手口としてはイマイチとは言えないか(非常に畏れ多い指摘ではあるが)。
だから、自己告白型で日記調の小説(「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」なんかは正にそれ)は有効な打開策になり得ると思う。“型”を好み慣れた人達にとっては分かりにくくてジリジリするだろうが、作者は日々移ろい行く物事に対して真に寄り添えるし、ストーリーの“型”から離れる事でさらに深く物事を考察出来ると思うので、彼等にとってより上等な手段だとは言えないか。物語が過度にギッコンバッタンしない程度において示唆に富んだ興味深い事件を持ってくれば、“型”なしからもたらされるであろうストーリー上のヒューマンな感動の欠如も多少は補えるであろう。人工度が増してしまって結果真似されてしまうだろうが。今日書いてみてやっぱり思ったが、感性や主観性にだけ頼って放埒に書くのは土台無理な話であった。心に待ったがかかったのである。AだからBといった論理展開を保つ為に、理性による注意と配慮が必要だし、(必要だったか分からないが)理屈も多少は捏ねてしまった。まあこれが客観性というか人工的調整というか、より多くの人に理解されたいと思った結果なのだろう。
論評対象を小さくして話を文章に戻そうと思う。マンのような、完璧を目指したかのような文章は、頭の中の複雑度の差異から言って僕が再現するのは無理だろう。特に外観背景描写は物凄い凝りっぷりである。「空が青いから気持ちが良いですね」と言ったら馬鹿にされそうだ。
「あの人は伏し目がちだから、きっと恥ずかしいか、退屈しているか、怒りを堪えているのでしょう」
つまり、“伏し目がち”という表現さえあればそこそこ想像が効くし、更に“拳を握っていた”や“頬を震わせていた”という表現も加えれば答えは出たと思うのだが。マンに限らず小説家一般は表現過多ではないか。要は、言葉を尽くしたんだから私が外の世界に感動した旨をどうぞ理解して下さいね。信じて下さいね。といった同調を我々読者に求めているのではないか。というのも、感動云々以前に、文字を辿る事のみによって頭の中にマンと同レベルの空間構成を再現する読者なんて学者以外は殆ど想定出来ないと思うのだが。なんならその文章技量と様々な知識、情報処理能力を自慢しているだけなのかもしれない。そしてページ数を割き詳しく説明するのであればそれ相応の示唆に富んでいなければいけないと思うのだがどうだろう。外観背景から感受した言い様のない感動を表現しようと思った結果があの完璧で詳細な文章表現に繋がっているのだとしたら、僕は外に対して感動と興味の薄い男という事なんだろう。まあ、語り過ぎない事によって逆に感動を表現する事も出来る訳なんだが、自分如きが敢えてこれ以上この一般論を強調する必要はないだろう。以上は小説という文学ジャンル特有の傾向であって、それに対する素人的素朴な疑問を今回表明したかったのである。その点、森鴎外の「灰燼」なんかはさっぱりしていてテンポも良いのではないか。ただ、さっぱりしていても単調なのはイマイチである。モームの「人間のしがらみ」はシンプルだが、文章の緩急に欠ける気がする。好き勝手言ったがいずれにせよ小説家にだけはなれないだろう事が読書によってはっきりした。僕が出来るのは多少内面をえぐる事に尽きる。
話を戻すと結局、適時適材適所の込み入り具合によって感動がもたらされているのではないか。その点(と言ったらかなり強引だが)、チャンネル桜の追加入会手続きが少々面倒だった為に興ざめし、この度の入会見送りに至ってしまった。僕は既に入会しているので追加課金の際は個人情報の再記入を求めないで欲しいし、ワンクリックで課金出来る様にして欲しかった。間違い防止の為に本当に了解したかもう一回計2回尋ねてくれたらそれで良い。忙しいのだろうからまあ仕方がない。以上はただのわがままであった。
とても勉強になるチャンネルなのでここまで読んでくれた方は是非ともご入会頂きたい。お安いコースが出来たみたいである。

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