文学の感動について考える

最近、どんな話を書けば人を感動させる事が出来るのかという事を考えるんですよ。僕の書く日記はあまりにも現実的な話題に偏り過ぎているし、まあまあ主張の強い文章を書いていますから、読者を知らず知らずの内に感動の世界に没入させる事が出来ないんですね。現実的な話題を取り上げる事は別に悪くはないのですが、「それなら俺も知ってるし、語れるよ」といった批評精神を読者の中に呼び起こしてしまうだろうと思います。さらに、主張の強い評論はある種の反発を招く事に繋がるでしょうから、それによって読者の意識をはっきりさせてしまう効果があるんですね。繰り返しますが、読者の頭に冷水をぶっかけて潜在する常識や知性に問いかけるという僕の文章レトリックが低劣という訳ではありません。具体的な分かり易い例を引っ張って来ないと、他人と感覚を共有するのは現代において中々難しいんですね。ただ、この形式を継続する限り、僕に対する冷たい印象は拭えないだろうと思います。そして「ああまたこのパターン」かと思われるのがオチではないでしょうか。もっと曖昧模糊とした仄めかしと周到さを駆使して評論を書くのが大人の手段なんだろうかとも思いますが、それは本来小説でやればいい話であって、評論は直球が基本だろうと思います。それは「貴方の思想が単純だからだろう」とも言えそうですが、小説に比べて冷ややかな存在としての地位にある批評や評論というジャンルにおいて、いちnoterに過ぎない自分が文学文学する必要性は本当に存在するのだろうか、それよりは分かり易さと問題提起をメインにした方が良いのではないかと僕は考えます。
たまには、冷水と一瞬の煌めきを武器にするのは止めて、夢想の世界にいざなう手段を用いたいと思うのです。というのも、冷たい血と明晰な頭があれば人は事足りるのでしょうか。それでは腕組みするばっかりで、本来熱い何かがなければ人は行動しないのではないでしょうか。僕は、冷たい評論の中にも自然な範囲で熱いものを可能な限り含ませようとして来た積りですが、残念ながら、僕の2000字超の日記ではボリューム的にちょっと役不足なんですね。仮に血の通った表現を用いようとも、前置き、助走期間がないと効果半減なんです。前菜がなければメインディッシュが映えないという理屈です。問題は僕の構想力と根気ですね。あとは、あまりにも理屈っぽくて無駄に間延びした文章を助走期間に書いてしまう事を防ぐ。つまり、助走を通り越して歩みを止めてしまわない様な、読者の適度な興味を継続し得る文章を持ってくるセンスが必要と言えましょうか。溜めて溜めてバンっみたいな。ここまで来ると机上の空論のようにも思えるので実際に書いてみる事が肝要でしょう。
そして本題、感動を引き起こす様なテーマ設定について考えてみたいと思います。勿論、安易に登場人物を死なせたり、難聴障害者もののすれ違う恋を描いたり、余命〇〇日の花嫁とかはご法度です。それが悲しいのは当たり前だし、人間としての在り方を別に問うてはいないからです。だからといって、僕が確固とした譲れない人間の理想像を持っていてそれを押し付けようという話ではありません。ただ、僕が一体何に感動してそれがどんな要素によって構成されていたのか分析する。つまり、逆算した結果を示そうという訳です。自身の読書量が少ない為に、適切な例を挙げれるか怪しい点は予め言い訳させて下さい。今迄の日記で何度も紹介して来ましたがトーマスマンの「ファウスト博士」は良かったですよ。主人公が吃りの師匠から公衆面前で音楽理論を教わるシーンと物語クライマックス、主人公が最期の作曲を皆んなの前で披露する直前に力尽きてしまうシーンは感動ものです。あまりに率直で真摯な姿勢が祟って空回りしてしまいドジを招いて、皆んなに笑われ、一人去りまた一人去りと、その真理は結局誰にも伝わらなかった、大衆という強敵に屈するといった悲劇で終わる点において両者は共通しています。これを小説の一場面に過ぎない話だとは僕は全然思っていなくて、この一連を我が身を挺して真似たのが三島由紀夫だったのだろうと思っているし、本来のお笑いとは何なのか、余命〇〇日が悲劇と言えるのだろうか(限りない不運の一例とは言えそうであるが)と考えさせられます。
小説を読んでいる時は真剣なので勿論ゲラゲラ笑えはしませんが、計算され尽くした吉本の笑いは本来敬意の対象なのであって、意図されていなかった行いに釣られて思わずクスっとする程度が自然な笑いなのかもしれません。ゲラゲラした笑い、腹を抱えてといった表現、バカ笑い等は、人間の本来の自然な姿からは逸脱し、世界から孤立してしまった様子を逆に表しているのかもしれません。
ニーチェを主人公のモデルとして「ファウスト博士」が構想されたそうですが、人物の引用が上手いと思いますね。彼の「ツァラトゥストラ」は、個性的で詩的な印象を通り越して僕にはパロディに思えて来ます。ここまで率直に表現する必要があったのかと。彼は僕の数倍冷たい男だったろうと想像しますが、あの様な夢見る乙女の様な側面をマンは観察し面白い題材だと思ったのではないでしょうか。彼ほどの聡明な頭があったら、得意のアフォリズムでもっと分かり易く書けたろうし、散文小説における詐欺的な眩惑技術を駆使してより現実的な感動を引き起こせたのではないでしょうか。そして、現代はさて置き当時は全く受け入れられる事無く発狂してしまったのは周知の事実です。
押し付けではないとしながらも、現代小説には珍しい感動の一つの型を強く推奨した結果になってしまいました。この程度の反論では恋人の障害や死を題材にした強烈な現代の潮流は到底くつがえせないでしょう。この感動理論について仮に一万字の努力を費やしたなら、やっとそこに滑稽さが生まれ、「いいね!」の数に読者の無関心と僕の虚しさが表現され、この理論は証明されるに至るのだろうと思います。

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