恋愛と遺伝を考える

僕は中学生のとき、鈴木あみが好きだった。特に「BE TOGETHER」の彼女は可愛さの絶頂にあったのではないか。黒いテカテカしたエナメルドレスで歌う様子が今でも印象的である。こんな垢抜けた女性は少なくとも田舎中学校には居ないなと思ったものだ。彼女のビジュアルを基準に付き合いたいとか止めとこうと考えるほど愚かではなかったと想起するが、それでも彼女の登場によってぐっと基準が引き上げられたのは間違いない。とは言っても、その頃の少年なんてものは全然怪しいもので、自分というものが全くあやふやであるので、ちょっと優しくされたらあっちへなびきこっちへなびきとやっていたものである。ただ、全くの内気であったし、ああしたいこうしたいという思いも特に無かったので、後から振り返ってみると明確な成果は全然上がらなかったのであった。
最近の女子学生の進歩は凄まじい気がする。僕が20代の頃、会社のおっさんが「最近の女の子はかわいいね。昔はもっともさっとしていたよ」と言っていた。へぇーそんなもんかと当時は思ったものだが今は分からないでもない。自分がおっさんになっただけかもしれないが、あの時の鈴木あみが今では街中に溢れている気がするのだ。
昔はお見合い結婚が普通だった。だから、不細工男女同士が結婚していたろうと思うのだ。もっと前の江戸時代は、士農工商の身分制度があった。さらに今みたいなグローバルな世界では全然なかったので、その地域の農民同士でぐるぐる回していたのである。高貴な身分特有の気品は一世代のものに限らず、生活環境から得た優雅さは自身の遺伝子にまで影響し、後世へと繋がっていくものではなかろうかという持論を僕は抱いている。何を言いたいのかというと、品のある顔をした人達と庶民的な顔をした人達が今よりはっきり別れて生活していたのではないかと思うのである。
今やそれらがごちゃごちゃになっただけならいざ知らず、さらに美しいものだけが選別され生き残るに至ったのだ。全ての慣習・しがらみから自由になった人間が純粋本能に基づき美を追求することによって、不細工遺伝子はいずれ瀕死に追い遣られるだろうと予想する。十年そこそこでそこまでの劇的な進歩があったとは流石に考えにくいので、女性の化粧によって僕の目がくらまされているに過ぎないのだろうと思うが、完全自由化世代が結婚し子供を作ったら前の世代よりは間違いなく美少年美少女が増えるだろう。
アダルトビデオ業界がその一端を表している。最近、圧倒的美少女が増えたし、ついでに豊胸も増えた。ただ単純に貞操観念が崩壊しているだけかもしれないし、ギャラが増えたのかもしれないので遺伝は関係ないのかもしれないが兎に角美少女は増えた。それとともに僕の美少女信仰も完全に崩壊した。今はサンプルムービーだって見たくはない。全く詰まらないのである。顔と若さに頼ったであろう演技の怠慢とぱつぱつに張った巨乳。顔について言えば美人系とロリ系の違いこそあれど、目がつり上がったり、顔が下ぶくれだったり、たらこ唇だったりする女の子は端から排除されているのでパターンの少ない事少ない事。
そもそも僕にとって鈴木あみ的美少女とはなんだったのだろうか。ただの偶像崇拝的な美に過ぎないのではなかったか。そもそも恋とは愛とは恋愛とはなんなのだ。実はフィクションだったのでないかと思ったのである(ある一日のふとした瞬間になんの前触れもなく気持ちがふっと冷めてしまい女の子を驚かせてしまった事があり、経験に裏打ちされているのであって思い付きではない)。おっとこのままでは結婚が出来ないぞと思った僕は、出会い系サイトに登録したのであった。そこには色々な女の子が、綺麗・ブサイクは当然ながら、おばさんまで揃っていた。さっさかさっさか指でスクロールしながら各々の写真を吟味させて頂いたのである。そして、おばさんって意外と良いものだなと思った。絶妙な崩れ具合と言ったら申し訳ないが、写真からでも伝わってくる妙な色気があるもんだ。下手なメールを打っても許してくれたし、会ってみると優しかった。スカートの上に贅肉が乗っていた事も見逃さなかった。そこで僕は思ったのである。恋や愛や恋愛のもとをたどれば結局、性欲に繋がるのではないかと。漱石の「文学論」だけでなく、恐らく他の文学者もそう言っていたと思うが自分もそう思った。
僕達は常日頃から恋愛ドラマを見過ぎていて、知らず知らずの内に性欲を美化して恋愛に昇華し、それから外れるものは野蛮・外道だと思い込んでいたのではないか。鈴木あみでも結局勃つんだろうが、それは征服欲、達成感、男としての名誉心から興奮したのであって遺伝子が彼女を真に求めていた訳ではないのかもしれない。男にとって以上の様な冷静さは害悪であるとも付け加えておこう。男が獣である事こそ本当は女にとっても幸せなのだ。今の世間的な女の建前上、仮に紳士的なジェントルマンに憧れるふりをしなければならないにしても、真面目で神経質な男にそれを求めるのは酷だろう。元々少なかった獣性が女の残酷な偽善によって削がれてしまい、ドストエフスキーの「地下室の手記」の様な不能者を最悪作り上げてしまいかねないと思うからである。
最近、おばさんでなくて、同世代においてもこの様な面の食指が動き得る事を認めた。例の大量の写真スクロールが功を奏したのである。勿論、鈴木あみの様な女性ではない。そのタイプの特徴を容易には表せないが、恐らく全員の男には刺さらないであろう女性である。そもそも全員に刺さったらおかしかったのだ。一つの型に群がってしまったら生物は繁栄出来ない。標準形の間で右往左往するのではなく、直感だけを頼りに自分の理想を探し臆せず追求すべきだったのだ。鈴木あみという偶像崇拝をもっと早くに脱却出来ていたら、結婚も訳なかったろうが仕方ない。この様な遺伝子を意識した相手選びは昨今急増する離婚防止対策にも寄与するものと信じている。

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