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和解の握手のような。

 おそまきながら昨夜、若竹千佐子の《おらおらでひとりいぐも》を読み終えた。とても素晴らしかった。女が一人で生きることの、なんと「にぎやか」なこと!
 私の脳内も負けてはいない。孤独に向き合えば向き合うほど自分の声はハッキリしてくるものだし、奔放な私どうしの議論は盛り上がり、私の、私による、私のための爽快なファンファーレは、今日も誰にも知られず鳴り響くーー。女には日々、避けることのできない自分との戦いがあり、私は勇ましく、滑稽で、勝ったり負けたり、一日の終わりには疲れきって、思わず自分に「あっぱれ!」と叫ばずにはいられない。孤独とは、案外にぎやかなものである。

 一方で男というのは、女(母親なり妻なり)を失うと急に生活が収縮してしまう。他者にばかり原因を求めて、孤独と向き合うことをしないためであろう。それまでは女を支配することで自分を保ってきたのだ。もともとが虚構である。都合の悪い現実を見られないのも無理はない。
 プライドをこじらせ、ご近所さんに「おはようございます」と笑顔で頭を下げることすら満足に出来ず、相手と見れば「自分の部下にする価値があるかどうか」と値踏みするような態度の男に、誰が情けをかけてやれるだろう。
 彼らは必ず孤立するーー。

「孤独」と「孤立」はまるで違う。
 孤独は自分と向き合うことであり、勇気を持って現実を直視することであり、自分の弱さを認め、気楽に生きてゆくことである。そして孤立とは、様々な要因によって生きてゆく能力を失うことであろう。
 女に見捨てられ、赤ん坊のように無力になってしまう男だけに限らず、誰かと一緒にいても、毎日ぎすぎすしてお互い足を引っ張りあうような関係であれば、彼らもやはり孤立している。
 災害がそれを引き起こすこともある。ライフラインが途絶え、外部からの救援がなければ死んでしまうという状況は孤立である。逆にライフラインが途絶えていても、その場に利用できる資源があり生活が成り立ってゆくようならそれは孤立ではない。新しいコミュニティ、もはや「村」の誕生である。

 男と女のどちらかが「生きる能力に劣っている」ということはないだろう。それでも明らかに男のほうが孤立しやすいのは、女が女自身でその能力を発揮できるのに対し、男は女を従えることでしかその能力を発揮できないためである。女はひとりでも生きていけるが、男は女という奴隷を失えば「無能」に転落し、何者でもなくなってしまうわけである。
 セクハラをコミュニケーションだと思っていたり、束縛することで愛情を示そうとしたり、母親に機嫌をとらせたり、いつまでもゆりかごの中であぐらをかいて、一度も女から独立したことのない男は、やがて世間から見捨てられることになるだろう。父親や、息子、夫、会社の同僚などの態度を、よく観察してみるといい。将来的に誰が孤立し、誰が生き残るか、一目瞭然のはずである。

 さて今日からは、オルハン・パムクの《黒い本》を読み始める。おそらく私にとってはじめてのトルコ文学だ。これまでトルコ文学を読まずにいたことに、たいした理由はないが、強いて言うなら、学生時代にバイトをしていた都内のトルコ料理店のオーナーが「人間のくず」だったということである。
 中年のトルコ人男性で、外国で商売することの大変さには同情するが、前述したようにプライドをこじらせまくって女と見ると誰彼かまわず当たり散らす幼稚な男で、店はかなり繁盛していたものの、勘定がめちゃくちゃなためにあっちでもこっちでもトラブルを起こし、移民局を名乗る人間や、業者の取り立てや、給料が未払いだという元従業員らがしょっちゅう怒鳴りこんでいた。
 トルコという国が大好きで、いつかイスタンブールに移住したいと言っていた同僚の女の子は、かわいそうに、オーナーの性格の悪さに激しいショックを受け、すっかりトルコ嫌いになってしまった。「戦争だよ、いつかきっと戦争になるよ」彼女はそうつぶやいて店を辞めていった。笑い事ではないが、笑ってしまう。大人の男に駄々っ子をやられては、あきれるしかない。

 しかしオルハン・パムクにはなんの落ち度もない。(ーーはずである)
 あらすじによると長編ミステリーのようだ。なかなか分厚い本だが、手に持った感覚は以外としっくりくる。和解の握手のような。
 しばらくは、秋の夜長の友になっていただこうーー。


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