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土居豊の文芸批評・アニメ編 『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』は21世紀の混迷を先取りしたアニメ

割引あり

土居豊の文芸批評・アニメ編『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』は21世紀の混迷を先取りしたアニメ 


※写真は全て土居豊の撮影



(1)「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」を2周、通して観た


「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」、この長いアニメを最近、2周通して観た。最初は地上波テレビの再放送枠でなんとなくみはじめて、だんだんと引き込まれていくうちに、最初の方のあれこれが実は伏線だったことがわかってきて、もう一度最初から見返したくなったのだ。
前作の「ガンダムSEED」も長いアニメだったが、こちらはオリジナルのアニメ「機動戦士ガンダム」の最初のシリーズを巧みに換骨奪胎した改作ぶりが面白くて、細かいところまで注意しながら観ていた。
だが、続編である本作はオリジナルのガンダムシリーズから完全に逸脱して、当初から独自の展開をみせる。
最初にみた時はそこまで思わなかったが、再視聴してみて、ゼロ年代アニメを代表する一つである本作が、10年後の今、ウクライナ戦争とコロナ感染に対するワクチン開発などまさしくリアルタイムの世界の諸問題を、実は先取りしていたことに驚かされた。






(2)「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」キャラクターたちの魅力


前作「SEED」は、オリジナルのガンダムの物語を全く新たな設定で書き直す工夫に、相当な労力を取られたのだろう。破綻なく物語を展開させることに、ひたすら注力していたようにみえる。その分、キャラクターたちの描き込みはかなり行き当たりばったりな部分があり、主要人物同士の人間関係もちょっとご都合主義的に思えた。
だが、続編「SEED DESTINY」では、そもそもの最初から物語が首尾一貫していない。その分、キャラクターたちの行きがかりや偶然の絡み、運命的な結びつきなど、人間模様の破天荒な成り行きで物語が駆動していく。
ネット上の批判は逆に、そのような強引に見える人間関係の絡みあいに対して、手厳しい意見が目立つ。だが、前作「SEED」でのあまりに都合良すぎる人間関係の整理は、リアリティを失わせる原因となっていた。一方の続編「SEED DESTINY」の人間関係は、主要人物たちがほぼ全員空回りし続けて、関係性を壊す寸前まで衝突や非難を繰り返している。本当は、こちらの方がリアルな人間関係だといえるのだ。しかし、視聴者たちの意見としては、このキャラたちの空回りっぷりが腹立たしいようだ。








(3)戦争ものアニメ「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」の物語の破綻


物語はほぼ戦争の進展とともに展開しているため、戦争描写が多くなるのはロボットアニメ、SFアクションアニメの宿命だ。しかし、「SEED DESTINY」での戦争は、前作と違って偶発と相互不信、憎悪の応酬、恐怖のプレッシャーなどが複雑に心理に作用し続ける。政治家や軍人は、意に反する形でどんどん戦争継続を選ぶ羽目になっていく。
こういった誤算に次ぐ誤算は現実の戦争でも実際に起きており、事実、現在のウクライナ戦争で見受けられる戦争の泥沼化は、「SEED DESTINY」の描く戦争の展開を、まるで見習っているかのように思えるのだ。
たいていの戦争もの作品には、背後で戦争の糸を引いているラスボスがいる。だが「SEED DESTINY」におけるロゴス(死の商人)、ブルーコスモス(秘密結社)、そのリーダー・ジブリールは、ラスボスというには先見の明に欠けている。かといって、黒幕的に事態を操るデュランダル議長が、ラスボスとして戦争の継続を意図したかといえば、むしろ彼の計画は戦局の泥沼化と主要キャラたちの予想外な活躍によって、ずいぶんと狂わされてしまったようにみえる。
この作品の物語が見通し不明瞭で、しかもクライマックスが不発なまま、妙な形で終わってしまうことも、むしろリアリティを感じさせる。あるいは作り手の側の計算、設計とは異なる展開をしてしまったということもありうる。だからこそ、その偶然の成り行きが物語自体を自在に駆動させ、ポストモダンな戦争物語となり得たのだろう。







(4)破綻したヒーロー、シン・アスカ


さて、本作のメインキャラクターは、もちろん新たなヒーローとして登場した少年、シン・アスカには違いない。この少年の成長が本来の、物語の主軸だったはずだ。その証拠に、物語展開の中で、シンは常に舞台にいて、他の主要キャラの中で最も出番が多い。
けれど、これもまたネットの議論の主要な意見となっているように、シンは主役のはずが悪役になっていき、しかも前作からの主要キャラたちに圧倒されて、いわば存在を食われていくのだ。とてもじゃないが、本作のシンはロボットアニメ、SFアクションアニメの主役とはいい難い。これは、脚本や演出の失敗なのだろうか。
いや、むしろこのヒーローらしからぬ主役、アンチヒーローとも言えない無様な主役、これこそが21世紀初めに時代を先取りしてしまった新たな主役像となったのではなかろうか。
エンターテイメント作品における主役とはどんなものだったか? 過去からの流れを一度、振り返ってみると、シン・アスカの革新性が理解できるだろう。
20世紀中盤以降、しばらくは19世紀的主役がテレビアニメや映画でも支配的だった。それは例えば日本アニメではスポ根もののヒーローたちや、アクションアニメのヒーロー像、そしてロボットアニメのヒーロー像を思い起こすと明らかだろう。
その後、20世紀後半に向けて、悩める主役像が次々と登場してくる。ガンダムのオリジナルテレビアニメでの、アムロ・レイやシャア・アズナブルがその代表例だ。悩める主役像は、20世紀終わりに「エヴァ」のシンジでその典型を生み出す。
だが、その悩めるシンジくんでさえ、あらかじめ作られた人格のパターンをなぞっている。首尾一貫した人格のパターンを大きくはみ出すことはない。
しかし、21世紀の主役像かもしれないシン・アスカは違う。この少年は最初から人格が破綻しているし、性格的にも性質的にも筋が通らない。その言動や行動ぶりは常にその場限りの情動に支配されている。しかも、常に上位者からの支配的影響に大きく左右されていく。こういう不安定極まりない人格の主役が、かつてアニメに存在しただろうか?
しかし、現実において人間は、こういう不安定さを見せるものなのだ。特に10代の男女は、情動に支配されやすく、強い影響力を受けると心が左右されて言動が大きく変わる。
アニメで描かれるリアルな10代の少年として、シンは時代に先んじていたのではなかろうか。




(5)キャラたちの恋愛と友情

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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/