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土居豊の文芸批評 特別編《ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』と、マルチバース小説、そして自作のことなど》

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土居豊の文芸批評 特別編
《ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』と、マルチバース小説、そして自作のことなど》



(1)ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』と自作の思い出


ヘルマン・ヘッセの小説を、今20代以上の人の多くは、一度は読んだはずだ。なぜなら、中学校の国語の教科書に、かつては定番教材としてヘッセ「少年の日の思い出」が載っていたからだ。


※参考
教育出版
https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/chuu/kokugo/document/ducu6/docu601/docu60101/nd1733.html

三省堂
https://tb.sanseido-publ.co.jp/03gkpr/documents/document_pdf/03ngk_tmsample_b.pdf

光村図書
https://www.mitsumura-tosho.co.jp/kyokasho/johoshi/c-kokugo/sodan/c51


しかし、そのほかにヘッセと現代日本の私たちの間には、接点がほとんどないといっていい。そもそもドイツ文学は、今の日本の出版界では実にマイナーな存在に成り下がってしまっている。いまさら、19世紀末から20世紀初頭のドイツ文学を、読み返そうという人は少ないかもしれない。
だが、ヘッセの数多い小説の中で、唯一無二の作品がある。それはノーベル文学賞受賞の『ガラス玉遊戯』ではなく、映画化もされた『シッダールタ』でもない。思春期の危機を描いた名作『車輪の下』でもない。
ヘッセの小説『荒野の狼』といって、はたしてどのくらいの人が知っているだろう? もっとも、ロックバンド「ステッペンウルフ」の元ネタだといえば、少しは通じるだろうか。

※「ワイルドでいこう! ステッペンウルフ・ファースト・アルバム」
http://tower.jp/item/4224742

※映画「イージー・ライダー」
https://eiga.com/movie/42360/


しかし、ここで語りたいのは、映画『イージー・ライダー』などで有名なロックのことではない。本作を現在から読み返すと、まるでマルチバースを描いたような小説になっていることについてである。。
本作を読んで良くも悪くも影響を受けた私は、若書きの習作『パブロのいる店で』を上梓した。だがその後、商業出版での小説家デビュー作『トリオ・ソナタ』を最初の小説と位置付けたため、若書きの『パブロ』は、なかったものとしていた。のちに、Kindleでこの『パブロ』を『1989年』と改題し、電子版バージョンで再刊した。それでも、本作はいわば「志ある習作」止まりだと作者自ら決めてしまっていた。

※『パブロのいる店で』浦澄彬 著 (澪標 1999年)
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784944164202

内容(「MARC」データベースより)《まだポケベルもケイタイもなく、インターネットが夢物語だったあの頃、僕らは心の底から怖れていた、あの予言を…。ジャズハウス「ピカソ」を軸に織りなされる現実と夢想を往き来するような不思議な感覚の物語。》

https://jsjapan.net/jsalldata/detail/1937

《<内容紹介>
この小説は、八〇年代に青春を送った若者の物語です。その時代、日本はバブルの渦中にあって、人々は欲望をエスカレートさせていました。若者の中には、しかし、世紀末の終末観を抱いて、救いを求めて苦悩する者もいました。そういう若者の物語です。》

※小説『1989年』土居豊 著
https://amzn.asia/d/094AQDIy


最近、自分のこの習作を読み返したのだが、本作の奇妙な展開や構成が、まるでマルチバースを表しているような感じなのを認識した。そこで、この不思議な構成をどうやって思いついたのか、考えてみたのだが、すっかり忘れていたヘッセの『荒野の狼』に思い至った。
そもそもが、拙作『パブロ』の題名の由来は、ヘッセの『荒野の狼』に登場する謎めいた人物パブロにあったことも、すっかり忘れていたのだった。



(2)ヘッセのマイナーな長編『荒野の狼』とは


さて、ヘッセの小説『荒野の狼』は、彼の小説の中での位置付けとしては、晩年のノーベル文学賞受賞作『ガラス玉遊戯』へ至る長編群の最初のもの、と考えられる。自身の芸術の集大成としての『ガラス玉遊戯』の前に、『知と愛』という美しい長編があるが、それと対をなす謎めいた長編が『荒野の狼』だ。
本作を刊行した1927年当時は、第一次大戦の痛手から欧州が立ち直りつつあったとはいえ、ドイツ国内も混乱の渦中にあり、ヘッセ自身もスイスに移住して離婚と結婚を繰り返し、生活の転期を迎えていた。本作の中でも、ヘッセ自身を投影した主人公・語り手ハリーは、戦争反対により文壇・論壇から非難を浴びて、ひっそりと隠れ住むような生活ぶりだ。自死を憧れながら、決心のつかない状態だった主人公は、謎めいた美女に出会い、奇妙な人間関係に引き込まれていく。
その内容だが、はっきりいって、あらすじや要約をまとめることは困難だ。全体は大きく2つに分かれており、作中での小説「荒野の狼」という手記を記録した知人が語る主人公(作中の小説の作者)の姿と、小説本体、という二重構造となっている。こういう構成は、19世紀小説の定番の手法であり、架空の語り手を設定して、作中でさらに小説を記録という形で語る、という、メタ構造になっている。
その小説「荒野の狼」本体がまた、非常に混乱した手記となっていて、どこまで現実でどこから幻想なのか明確ではない。特に小説の後半、バンドのサックス奏者パブロが主人公・手記の語り手ハリーを、謎めいたアトラクションに案内する場面では、時空を超越した幻想描写が次々と繰り広げられる。その幻想の中で、ハリーは人生をもう一度生き直すような経験もするし、歴史的過去の人物が登場してハリーに語りかけたりもする。つまり、小説のクライマックスである幻想場面は、現実の(小説の中の)時系列から逸脱し、自由に時空を移動して、違う時間軸、違う歴史世界の中に主人公を送り込む。これは幻想といってしまえばそれまでだが、実はその中でのハリーの行動が、現実の(小説の中の)キャラクターを実際に殺したり生き返らせたりするような、奇怪な展開となっている。これは、やはり今でいうマルチバース、違う宇宙に移動しての体験を描いていると考えるのが自然だと思うのだ。


(3)マルチバース小説としての『荒野の狼』

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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/