大人に忖度する探究学習に学びはあるか。
今年に入ってから中学や高校の探究学習をお手伝いする機会が増えています。そもそも探究学習というのは、文部科学省が新学習指導要領のなかで示した、社会で求められる力=「生きる力」の育成を目的とした新科目です。
これまで「総合的な学習の時間」とされていたものが「総合的な探究の時間」になり、課題発見から解決までの能力や自分自身の理解、探究学習を通じて新たな価値の創造と未来への意識を持たせるなど、より実践的な教育になったのも特徴のひとつです。
探究学習に携わったことのある方なら、必ず見たことがあるであろう探求のスパイラルが上の図です。
課題を設定し、情報を収集し、整理・分析した上で、まとめ・表現していく。このサイクルをまわしていくことが探究学習だと言われています。
教員側もこれまでやったことのない科目ですから、いろいろ模索をしながら、市役所や商店街、地域のNPOなどと協働するケースも増えていて、各地で様々な実践が取り組まれています。
なぜか同じテーマが並ぶ探究学習。
そのなかで、最近ふつふつと感じている違和感は大人に忖度する探究学習の存在です。
学校によって進め方はいろいろですが、よくある探究のパターンは、地域や社会の課題をひとつテーマとして設定し、そのテーマについて分析を進めていく学習方法です。
決めたテーマついて本やネットで調べたり、場合によっては市役所やNPOなんかにインタビューして、どうやったら解決できるか?の方法をプレゼンテーションにまとめていきます。
そして、そのテーマ設定はどこの学校に行っても似たり寄ったりのものになっていることが多く、これがどうも不思議に思えるのです。
例えば、それは環境問題だったり、人口減少だったり、防災だったり、同じようなテーマが横並びになっています。
なんでこんなに同じものばかりなんだろう?と不思議に思い、先生たちに「どうやってテーマを決めさせているんですか?」と聞いてみることもあります。
そうすると大抵の場合、「生徒たちの自由です」と答えられて、僕はより不思議に思います。みんな本当にこれらのテーマを探究したいのだろうか?と。
大人に忖度する中高生たち
実は昨日今日と静岡市で高校生向けのまちづくりワークショップに取り組んでいました。
静岡市高校生まちづくりスクールという取り組みで、探究学習がはじまるずっと前の8年前から高校生のまちづくりプロジェクト学習を行っています。
学校と違い自由度が高く、毎年いろんな学校の高校生たちが参加してくれています。
大きな特徴は、自分自身の興味関心からテーマ設定をしていくことで、ワークショッププロセスのなかで、自分自身の興味関心を言語化していく時間を丁寧に取っています。
ここでも不思議なことが起こりました。
自分自身の関心のあることや、これから学びたいことを話しているときは、とっても自分ごとになって意気揚々としていた高校生たちが、テーマ決めの段階になったら「人口減少を解決したい」「地域交流を促したい」などと、どこかから借りてきたような言葉でテーマを書きはじめたのです。
それも、さっきまでそんなこと1ミリも言っていなかったのに…です。
そこで途中でワークショップの流れを変えて、もう一度本当にそれがやりたいのか見直してみよう、最初の自分で書き出した関心を見直してみようとしてみることにして、なんとか方向が修正できました。
あまりにも不思議だったので、高校生たちにそれ本当にやりたいと思った?と、尋ねてみてわかったのは、大人への見えない忖度でした。
例えば、本当は「サッカーや野球ができる場所をもっとまちのなかに増やしたい!」をテーマにしたいのに、いざ外に発表するテーマになると、それが「スポーツを通じて地域交流を促したい」と変形して出てきたりします。
誰にも言われてないのにそうしないといけないと勝手に思い込んで、大人や社会が良さそうだと思うテーマに忖度して変えてしまっていたのでした。
だから別に彼らがやりたいわけでもないテーマが出てくるし、当事者意識も薄くなって深く探究されやい探究学習がスタートしてしまいます。
だから「もっと自分の言葉で、自由な言葉で表現したテーマでいいんだよ」と伝えると、「え、いいんですか?」とびっくりした様子でもありました。
それも自分たちでいうのもなんですが、私たちが実施したワークショップは、かなり自由度があって、自分の興味関心を棚卸しする時間も丁寧に取っているにも関わらず、そうなってしまったのです。
一人ひとりに向き合うことが難しかったり、限られた時間の中で取り組む学校の探究学習なら、より忖度が起こっているのはいうまでもありません。
これはどう考えても大人側の責任じゃないかなと僕は思うのです。
教員が悪いとか、親が悪いとか、誰が悪いってわけではありません。
中高生たちに、自分の興味関心をそのままに言葉にしてはいけないという見えないという圧力がかかっていて。より強く表現するならば、そのように洗脳されてしまっているとも言えます。
そして、そんな社会をつくってきてしまったのは、私たち大人です。
できるところから少しずつ。
目の前にいる子どもや若者と接するときに、本当にそれがその子のやりたいことなのか?表現したいことなのか?忖度してないのか?
よかったら、ほんとにそれやりたい?って、聞いてみてください。
そういう一人ひとりの接し方ひとつが彼らを取り巻く環境を変えていくんじゃないかなだと思うのです。
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