見出し画像

人生に夢や目標は必要か?

いろいろな活動に取り組んでいると、会う人会う人に「土肥さんの目標って何なんですか?」「なにを目指してるんですか?」「夢はなんですか?」と聞かれることがよくあります。

ぼくはこの質問を尋ねられると「んー…」と、いつも困ってしまっています。

自分自身には、「これを成し遂げてやる!」という壮大な夢や目標はありません。むしろ、行き当たりばったりで、その時に自分を必要としてくれる場所、自分の心の声のする方に向かっていくような生き方をしてきました。

実は多くの方が自分と同じように、たまたまの連続を歩んでいるのではないかと想像したりもします。いま自分が取り組んでいる仕事や生活を、昔から「こうなってやる!」とイメージしていた人はどのくらいいるでしょうか。

もちろん中には、「将来こうなりたい!」「自分の夢は◯◯で…」と明確なイメージを持たれている方もいます。それは素晴らしいことだと思いますし、そんな風に言葉にできることを羨ましく感じたりもします。

でも、別にそれは強制されるべきことではないと、ぼくは考えています。つまり、すべての人が明確に「自分の目標は◯◯です」と言えなくても良いと思うのです。

この内容に関連して、法政大の児美川孝一郎先生が『夢があふれる社会に希望はあるか』という本を書かれています。

夢があふれる社会に希望はあるか (ベスト新書)www.amazon.co.jp 836円(2020年05月02日 22:07時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する
「夢を持つことは悪いことではない。でも、ピンポイントで夢を持つとその子の可能性を狭めてしまう」
「夢を持つことはそんなに素晴らしいことなのか?「努力すれば夢はかなう」というのはある種の迷信だと、みんなどこかで気づいているはずなのに、夢がかなえられなかったときにどうすべきかについて、誰も言及しようとしない」

この本の指摘が本当にその通りで、ぼくはこれを読んで気持ちがスッと軽くなったのを覚えています。

子どもの頃に「将来の夢は?」と聞かれ、うまく答えることができませんでした。その頃から「夢」や「人生の目標」という言葉にはどこか違和感があった気もするのです。

なぜか私たちは人生の夢や目標を持たなければいけないものと思い込んでいます。それが法律で決まっているわけでもないのに、「夢はなに?」「目標はなに?」と聞きたくなる病なのかもしれません。

ぼくには、夢や目標はありませんが、大切にしたい/ゆずれない価値はあります。

例えば、「だれかの頼みごとは、一生懸命にやる。でも、自分がしんどくなるまでやらない。」「いまの社会の当たり前を疑う。自分の当たり前を疑う。」「“遊び”を忘れない。自分の心に素直に生きる。」などです。

ぼくは「夢はなんですか?」と聞かれるよりも、「大切にしている価値はなんですか?」と聞かれる方が嬉しくなります。そしてぼく自身、他の方と話すときは、そのひとの夢や目標よりも、「このひとが大切にしたい価値はなんだろう?」と考えたりしています。

べつにこれが正解だ!と言いたいわけではもちろんありませんが、ぼくはこの方が気持ちよく生きられる気がするのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?