『満月 空に満月』にみる井上陽水の人物像
昼寝をすれば夜中に
眠れないのはどういうわけだ
満月 空に満月
明日はいとしいあの娘に逢える
本書のタイトルは『東へ西へ』の歌詞から来ている。出だしのボヤキから笑ってしまう。どういう感性をしていたらこんなフレーズが生まれるのだろうか。
本書はシンガソングライター、井上陽水の半生をつづったものだ。と言っても1995年の本であって、20代の中盤で終わってしまう。『氷の世界』が超大ヒットとなり、その後にプロダクションやテレビ局にうんざりするまでだ。だから情報性という意味では、2021年に読んでも仕方のない一冊と言える。
ただ、本書の面白さは本物である。陽水という人物の魅力について、この機会に書き留めてみたい。
陽水が歌手になるまで
まず面白いのは、陽水の生い立ちと、デビューするまでの経緯だろう。以下にまとめてみよう。
小学生:家族写真を嫌がって泣く。拭き掃除が嫌で、雑巾をしぼらずに廊下を濡らしてごまかす。かくれんぼで友達のお姉さんの洋服ダンスに隠れ、下着に胸をときめかせる。
中学生:友だちのように腋毛や陰毛が生えずに悩む。ラジオでアメリカのヒット曲ランキングを聞き、その動向を追うことが趣味になる。ある日、そのランキングの1位から6位が一つのグループに独占される。ビートルズとの運命の出会いに、陽水は夢中になる。
高校生:野球部に入るつもりだったが、うさぎ跳びをしているのを見て思いとどまる。高3でテープレコーダーを手に入れると、好きな女の子に自作の曲をプレゼントしたが、あまり喜ばれなかった。父親の「後を継いでほしい」という期待に添い、歯科大学に出願するも、不合格に終わる。
浪人生(一浪):実家を離れ、予備校の寮へ。親元を離れた解放感と悪友との出会いから、パチンコ中心の生活となる。遊ぶ金が必要になり、リーダー格の悪友から「ダッチワイフを通販で買って、それに売春をさせるように」というミッションを受ける(クオリティが低すぎて断念)。当然、受験には落ちるが、むしろ悪友たちが合格してしまったことにショックを受ける。
浪人生(二浪):予備校を移るも、結局パチンコ漬けの日々を過ごす。不合格。
浪人生(三浪):下宿に移る。ラジオでアマチュアの曲を流すコーナーがあり、「これならおれのほうがもっといい曲をつくれる」と思う。『カンドレ・マンドレ』という曲を作り、放送局に直接売りこみに行く。
自分の曲がラジオで放送されることが決まると、葉書を100枚ほど買い込み、友人に頼んでラジオ局にリクエストしてもらう。ディレクターは放送のたびに反響が続々と届くことから、「すごい才能を発掘したかもしれない」とレコードデビューを決める。
ここまでが、陽水の子ども時代からデビューまでの、ごくかいつまんだ経緯となる。彼のひねくれ方や、浪人時代の自堕落な様子がとても面白いし、特に一浪時代のエピソードは爆笑ものだった。
露悪的な人物描写
本書の重要なポイントとして、本人の心理描写が妙にネガティブで一貫していることが挙げられるだろう。大成功を収めたシンガソングライターの回顧録でありながら、夢を持ったとか努力したとか、そういったキラキラ要素が全く出てこないのだ。陽水の思考回路のズルい部分(※1)、尊大な部分(※2)、ひねくれた部分(※3)が淡々と、繰り返し描写されていく。
本人の語りであるということ
ただ、注意しておきたいのは、この書籍が、ライターのインタビューに本人が応じ、語った内容から構成されているということだ。つまり、客観的な資料を積み上げて構築されたストーリーではなく、井上陽水本人が「自分ってこうだったんですよ」と語った内容なのである。
すなわち、本書における陽水の描写は、本人が「自分はこう見られたい/見られたくない」という判断を随時行いながら紡いだ内容ともいえるだろう。
陽水は立派な人間だと持ち上げられることに、辟易としていた。この頃、『氷の世界』のメガヒットを受け、陽水は年に180回ものコンサートを組まれていた。最初は楽しかったが、ある会場でコンサートをすると、すぐに夜行列車に乗って次の町に移動するという具合だった。やがて駅弁をみると吐き気を催すようになったという。
加えて、テレビ局からは尊大な態度で出演を依頼され続けた。その状況を受け、陽水は以下のような状態だったのだ。
いまや、日本中が自分と『氷の世界』のことでもちきりになったときに感じたエクスタシーは消え、あらゆることがバカバカしくなっていた。レコード会社やプロダクションの人間が、彼とともに訪れた幸運をさらに大きなものにしようとして目を血走らせているのを見ると、ますますその気持が強くなっていった。彼は、自分がスターになったことも、人に大騒ぎをされることも、何もかも面白くなかった。おれのことは放っておいてくれと思った。しかし誰も彼の気持を理解しようとしなかった。
このようなうんざりした気持ちの裏返しが「立派な人だと思われたくない」と言わんばかりの言動につながっているのだろう。
立派な人間だと思われてたまるか
この、「立派な人だと思われたくない」という思考回路は、本書に限らず認められる。有名なのは、アルバム「GOLDEN BEST」がヒットしてから1年後にリリースされた、「GOLDEN BAD」だろう。
「立派な曲ばかり入れたアルバムがヒットして、立派な人だと思われては困るから、塩を盛るという感じで。」
そんなコメントをどこかで見た記憶がある。(※4)
GOLDEN BADの件と同様、シングルのA面が綺麗であるほど、B面は遊びの多い(婉曲表現)曲なことが多い。
夏の終わりのハーモニー/俺はシャウト!
新しいラプソディー/ダメなメロン
少年時代/荒ワシの歌
いずれも、愛すべきポイントのある歌だが、「え?この美しい曲の後にそれを聴かせる?」というラインナップになっている。
美しい曲が書けてしまい、美しく歌えてしまう。でも、立派な人だと思われたくない。陽水の葛藤が伝わってくるのである。
こんなことを言われたらさらに困ってしまうのかもしれないが、このひねくれ方が素敵だなぁと思うのである。
幼稚な反発心というキーワード
本書の範囲を離れるが、『決められたリズム』という曲がある。映画『たそがれ清兵衛』の主題歌にもなっている。1番の歌詞だけ引用しよう。
起こされたこと 着せられたこと
凍えつく冬の白いシャツ
せかされたこと つまずいたこと
決められた朝の長い道
ふざけ合うたび 怒られたこと
静けさをくぎる窓の中
配られた紙 試されたこと
繰り返し響くベルの音
声をそろえて ピアノに合わせ
大空に歌声 決められたリズム
陽水はこの歌詞について、「幼稚な反発心」と説明していたと思う。(※4)
本書を読んだあとに歌詞を眺めてみると、なんとも、陽水らしい歌だなぁと思う。
※1 陽水にはズルいところがあった。雑巾がけのズルもそうだし、ラジオへのリクエスト葉書の件もそうだろう。加えるなら、彼が曲を作ってラジオに持ち込もうと決めた時、布施という友人をマネージャーに誘うのだが、「彼がギターを買ってくれるのではないか」という打算もあったという。
※2 曲を作るのなんて簡単だと思っていたし、自分の作る曲に自信も持っていた。ホリプロの社長に「レパートリーはどれぐらいあるのか」と聞かれ、実際には2曲しかないところを「二千曲」と答えている。それぐらいならいくらでもデッチあげてやると本気で思っていたのだ。
※3 陽水にはひねくれたところがあった。しつけの厳しい家庭だったこともあるのだろう。小学生のときから、家族で写真をとったり、お年玉をもらったりという行動にも何か引っかかりを感じ、拒んでしまうようなところがあった。寝る前には自分が人と違っていて嫌だな、ということを20個も挙げていたという。
※4 陽水について熱心に情報を集めていたころがあり、印象に残ってはいるのだが、今となっては出典を確認できない。