『鬼滅の刃』と『ガッチャマンクラウズ』から考える、これからのヒーローの役割

先日、鬼滅の刃を通読し、とりあえず自分自身の素朴な感想を書いてみた。これは、何か作品を味わったあとは、他者の批評を見る前に自分の感想をまとめきるという自分ルールに従ったものだ。

しかし、一回目の通読を終えた直後、調べ事ゼロという状態では、この作品の面白さの核となる部分を引きずり出せたという手ごたえもなく、鬼滅の刃が多くの人の心をつかんだ理由もつかみきれないままという感触だった。

トラウマがキーワード

自分自身の感想をまとめた後は、至福のネットウォッチの時間である。ヒット要因としてSNSの影響や、エンタメの消費傾向の変化を指摘する興味深い記事もあったが、それ以上に興味深かったのが、「トラウマ」というキーワードだ。

ツイッターでは「鬼滅の刃はキャラクターをトラウマで掘り下げているから未来を描けない」という議論があったようで、それに一度考えを巡らせてみると、いろいろと書くべきことが見えてきた気がした。

しかし、さらに調べると、自分では到底かなわないような記事にたどり着いてしまった。

この記事ではトラウマという観点からキャラクターが鮮やかに分類される。

:トラウマに屈し、モンスター化した人間
鬼殺隊の柱たち:鬼による被害者というトラウマを背景に、鬼への復讐という強い動機を持ち、狂気じみた正義感を放つ存在(甘露寺を除く)
炭治郎:鬼による被害者でありながら、妹を人間に戻すという動機で動き、鬼への復讐を目的としていない。鬼の虚しさ、悲しさを理解する存在。

この構図を理解することで、鬼滅の刃という作品を取り巻く構造を理解することができたように思う。

児童虐待の問題で例えるとわかりやすいだろう。児童虐待のニュースを見た時に、「ひどい親がいる、絶対に許せない」と思うのが柱たちだ。しかし、児童虐待を行う親には、自分自身が虐待の被害者だったケースも多い。このようなトラウマの再生産を行ってしまうような存在が鬼なのだろう。そして、「虐待は今すぐ止めにかからないといけないけど、でもあなたもつらかったんだよね。わかるよ」という立場をとっているのが炭治郎なのだろう。

こう考えると、鬼滅の刃において描写されるトラウマは、現代においてもある程度リアリティのあるものとして描かれていたように思われる。そのようなトラウマを持つ鬼が最後には炭治郎の腕の中で安らぎを得ていく。柱たちも、炭治郎に感化されてトラウマとの向き合い方を変えたり、トラウマから解放されたりしていく。この描写は、類似のトラウマを抱える人たちにとって”救い”だったのではないだろうか。

鬼滅の刃のヒットの要因として、王道、熱血、世界観、人物描写などが挙げられるが、それ以外にも、このような”救い”を受け取った人たちの熱量というのもあったのかもしれない。

現代のヒーローは何と戦えばいいのか

さて、上記の内容は、引用した記事の下位互換にすぎない。なぜそれでも文章を書こうと思ったかというと、鬼滅の刃の物語構造に触れることで考えが広がった部分があり、それを書きたいからだ。

それは、現代の物語におけるヒーローは何と戦えばいいのかという問題についてだ。

例えば、一昔前の物語であれば、もう絶対的に悪い奴がいて、そいつを懲らしめるという単純な勧善懲悪のストーリーが歓迎された。アラジンのジャファーだったり、ドラゴンボールのフリーザだったりは、個人的な野心で周囲に被害をもたらす純粋な悪であり、ただ退治してくれればそれでハッピーエンドだった。

しかし、時代が進むにつれて、「正義って単純なものじゃないよね」という理解が共有されると、単純な勧善懲悪ではなく「正義の反対は別の正義」という構図が歓迎されるようになった。グレンラガンの螺旋王やアンチスパイラルは抑圧者ではあったが、彼らなりに人類や宇宙を保全するための行動をとっていたわけだ。

このように、純粋な悪を仮定することが難しくなった現在、王道のバトルマンガやヒーローものにおいて”何を悪とするか”というのは、一つのテーマになっているように思う。

ガッチャマンクラウズにおける”悪”

ガッチャマンクラウズは、まさにこのポイントをテーマとしていた。主人公のハジメは「ヒーローってなんなんすかね」という問を連発する。一方で、もう一人の主人公というべきルイは、武力をもったヒーローの不要を唱え、市民一人ひとりがヒーローとなり、互いを助け合う「クラウズ」というSNSを運営する。

この物語における「敵」は、表面的にはベルクカッツェという宇宙人である。しかし、彼はインターネット上で誹謗中傷や炎上をあおるような”悪意”をキャラクター化したような存在だった。

最終的にハジメを含むガッチャマン陣営はルイと手を組み、人々の”善意”をつき動かすことでカッツェを無力化し、勝利する。放送が2013年だったことを考えると、震災時のインターネット上の光景が下敷きとしてあるのだろう。

続編のガッチャマンクラウズインサイトでは、なんと敵は「ポピュリスト」と「大衆」となる。ゲルちゃんと呼ばれる宇宙人が地球にやってくるが、彼は、侵略的でなく、むしろ好感の持てる存在だったため、お茶の間の人気者となる。

彼自身には主義主張はないのだが、人々の感情を読み取り、明るい気持ちへとコントロールする術にたけていた。彼は人々をもっと明るくしようと政治家に立候補し、人々は心地よい発言を繰り返すゲルちゃんに政治判断を丸投げするようになっていく・・・

このように、ネット上の集合的な悪意だったり、ポピュリストそのものや、それに流される大衆を”敵”と設定し、真摯に戦うヒーローを描いたのがガッチャマンクラウズというシリーズだった。

個人的には名作だと思ったが、、特にインサイトの方では明快な戦闘によって解決するようなカタルシスもなく、メジャーなヒット作とはならなかった(と思う)。

鬼滅の刃が成し遂げたこと

このように、現代においてもヒーローを描くことは求められる一方で、ヒーローの対戦相手を単純化することが許されないというのは、現代的な課題としてあるのではないかと自分は考えている。

ここで、鬼滅の刃がとったアプローチというのは、独特だったのではないだろうか。すなわち、表面上は「鬼という敵と戦う王道バトルマンガ」という体裁でストーリーを進めつつ、水面下ではトラウマという現代的な敵との闘いを描くというアプローチである。これは、王道バトルマンガへの需要を満たしつつ、テーマ的な深みを持たせることにも成功した、重要なアプローチだったのではないだろうか。

もちろん、自分は大して物語を読んでこなかった身なので、そんなアプローチは以前からいくらでもあると指摘されるかもしれないが、少なくとも自分には新鮮な気づきだったのである。あとガッチャマンクラウズの話がしたかったのである。

とりあえず、こんな理解を持ったうえで、答え合わせの2周目に入って、もう少し読み込んでいきたい。