本格小説を装う少女小説のあられもない欲望(水村美苗『本格小説』レビュー)
物語の誘惑
物語は母親の愛撫のようだ。批評が父親の苛烈な制裁のようなものだとすれば、物語はそれを読む者、聴く者を陶然と快楽の境地へと誘い込む。母親によって授けられる子守歌のように、物語は存在を慰撫する文化的装置だ。物語は薬でもあれば毒でもある。
「物語の暴力」を日本文学史上初めて主題化した中上健次の『枯木灘』では、浜村龍造をめぐっていくつもの噂話が新宮の町を駆け巡り、主人公竹原秋幸の皮膚を嬲る。また、その前日譚である「岬」では、秋幸の母親や姉たちが「秋幸、兄やんによう似てきたねえ」と夭折した郁男の話を語り続けることによって、秋幸を物語の磁場に引き寄せてゆくだろう。そのようにして秋幸は物語に犯され、染め上げられ、ついには物語の犠牲者たる自分自身を発見することになる。だが、その悲劇はなんという甘美な快楽にまみれていることだろう。
『本格小説』と題された水村美苗の上下巻合わせて1200ページ近くに及ぶ長編ロマンにおいても、物語は、登場人物から登場人物へと渡され続け、物語の快楽を輝かせる。物語の中心にいるのは東太郎という人物である。浜村龍造や竹原秋幸と比べても引けを取らない、日本文学史上まれにみる存在感を持つこの人物は、常に噂の主というかたちで登場する。歴史的な実在というスタイルではなく、いささかフィクショナルがかった逸話の主人公というスタイルで作品内をうろつきまわるのだ。「ふつうの男ではない。日本から無一文でやってきてアメリカン・ドリームを絵に描いたような出世をとげ富を成し、古くからニューヨークにいる日本人の間ではその人生がほとんど伝説となっていた男」と書かれているこの人物は、小説の主人公というよりは、いっそのことファンタジーのキャラクターと呼んだほうがよさそうだ。東太郎という名を持つこの特異なキャラクターは、「少女小説」という特殊なジャンルそれ自体が夢見た類いまれなる王子様であると、一切の皮肉無しに呼んでもさしつかえないかと思われる。
「少女小説」の熱に感染する者たち
作品内で「水村美苗」の名を持つ小説家が東太郎の名を初めて知るのは父親の口を通してである。その時、美苗は父の仕事の都合により、ニューヨーク郊外に住んでおり、アメリカのハイスクールに通う女子高生であった。日本を脱出し貨物船でアメリカに渡った太郎は、美苗の父の知り合いのアットウッドというアメリカ人のお抱え運転手として雇われたというのだ。恵まれた条件でアメリカに来た美苗と違って、この時点での太郎は「新天地を求めて」アメリカに渡ったとしても「太陽の当たらない井戸底を這うように社会の底辺でうごめいて一生を終わる」大多数の恵まれない日本人の一人にすぎない。
やがて太郎は、アットウッドの車に美苗の父が同乗する縁で、水村家に出入りするようになる。そして二度目の訪問時ささやかな儀式が取り交わされる。この作品の重要な主題である「贈与」が行われるのだ。美苗の母が昔使っていた「リンガフォンのテープ」が太郎の英語上達のために渡される。その1,2か月後にはすべてを暗記したと言ってテープを返却した太郎に、太郎のことを気に入った父(のちに太郎は父の勤める会社のカメラの修理工になる)が、昔自分が使っていた英語の教科書を手渡す。その数か月後には美苗の姉の奈苗が使っていた英単語帳が太郎に与えられる。このように「贈与」が幾重にも反復されてゆくのだが、この作品で特徴的であるのは、「物語」が人から人へと贈与されることである。この長大な物語の開巻3ページ目で早くも語り手の作家は、「そこへ思いもよらぬ『小説のような話』が不意に天から贈られてきた。それもこの私を名指して贈られてきたのである」と書いているのである。「贈与を語る物語」が「形式としての贈与」に支えられて物語を顕現させる、という驚くべき姿が読者の前に立ち現れる。では、語り手のもとに届けられる噂(物語)をいくつか拾ってみよう。
「アイツは気ちがいだよ」と語る会社の同僚は、太郎が冷蔵庫の中の棚をヨーグルトでいっぱいにして、肉が食べたくなると、袋詰めのフランクソーセージから1本取り出して蛇口から出るお湯で温めてそれを食べるのだと伝える。「やっだあ」と思わず美苗は叫ばずにはいられないが、太郎がそうする理由は英語の勉強をする時間を少しでも確保したいからである。また、十数年後にアメリカで成功者としてのし上がった太郎について、昔からの知人は美苗に太郎の「善行」を教える。「ニューヨーク浪人ともいえる、日本に帰るあてはないがこちらでもかつかつしか食べられない人たちを集め、慰労のパーティを開いているという」のだ。また、小説の現在時である1995年には、アメリカで小説を書きあぐねている美苗のもとへ加藤祐介という名の若者が東太郎の生涯の物語を届けにやって来る。その若者は「男の人が男の人に恋をするとしたらこのような顔をするのだろうか」と美苗に想像させるような表情を浮かべて、謎の人物の数奇な生涯を語ることになる。
こうしていくつもの語り手を登場させて東太郎の肖像が描かれてゆくことになるが、語りの複数性は、戦後日本の50年の歴史を不完全ながらも立体的に浮かび上がらせることに成功している。また、すべてを見渡すことができない語り手という限界の設定が、語り手を不意打ちする瞬間を導入することに貢献し、同時に劇的な効果も上げている。そして戦後50年の歴史を背景にしたこの物語で試みられていることは、誤解を恐れずに言えば、少女小説的な価値観を擁護することである。そこには階級的な美学が潜んでもいるだろう。そのことはおいおい触れることにして、美苗と太郎が初めて言葉を交わす場面を振り返ってみよう。
まだアメリカのハイスクールの女学生であった美苗と太郎は、美苗の自室の造りつけの本棚に収められた「少女世界文学全集」を話題にする。「僕これを昔読みましたよ」「妹さんでもいらしたんですか」「いいや。僕の家にあったんじゃありません。こんな本があるような家じゃありませんでした」ささやかな会話だが、それまで不機嫌な顔しか見せなかった太郎がほんの一瞬内面を垣間見せる場面である。では太郎はどこで「少女世界文学全集」を読んだのか。成城にあるヒロイン宇多川(重光)よう子の自宅においてである。東太郎の行動原理は2つある。1つは贈与である。彼は、贈与された者は贈与を返さねばならない、という格率を徹底する。いわば逆半沢直樹である。半沢直樹は10倍返しのリベンジで有名だが、東太郎の場合は、少なく見積もっても100倍の恩返しをおのれに課す。もう1つは少女小説的空間への執着である。彼は少女小説の精霊を守ろうとするがごとく、よう子との記憶にまつわる場所を必死に死守する。「少女世界文学全集」は、太郎にとって、そのような聖地と結びついている。
では太郎にとっての聖地は具体的にはどこか。軽井沢と成城である。その場所は「ある日気がついたらよう子ちゃんが自分から引き離され、そこへ消えていってしまうかもしれない世界、生まれながらにして自分が締め出された世界、自分がそこに属すことも、そこが自分に属すこともありえない世界」といったものである。東太郎が属しているのは蒲田のような場所であり、そこには「少女世界文学全集」があるような家はない。よう子たちが住まう成城という土地を、本作品のメインの語り手土屋冨美子は次のように語る。
まことに立派なことであるが現実的には長くは持続しないだろうな、ということが予感されてしまう抽象的に美しい世界である。また日本の戦後の歴史の中で消滅していったなにかでもある。けれども後年になって「日本にいたときは人も世も深く恨んで」いたと語る東太郎のような人間にとっては、それは夢という以上に生々しい訴求力を持っていたであろう。「少女小説」というジャンルは寂しい心を恰好の土壌として花を咲かせるジャンルに違いない。
少女小説を求める人間が東太郎以外に2人いる。土屋冨美子と宇多川家のお祖母さまである。
少女小説を求める人たちの来歴
水村美苗の『本格小説』は、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』を下敷きにして、それを日本の戦後の歴史の流れの中に移し替え、没落してゆくある階級の姿とともに描いた、まさに「本格小説」と呼ぶにふさわしい骨太な長編小説である。
『嵐が丘』におけるヒースクリフに相当するのが東太郎である。作品では昭和22年の生まれとされている。太郎の母は、戦前に満州に渡っていたが終戦直後「漢民族でも満州族でもない、どこかの山奥からきた山賊の大将」にさらわれてしまう。どうにか探し出されたあと太郎を産み落とす。太郎の母は「えれえ別嬪だったけど、気ちげえだった」という。太郎は、おじに引き取られ、成城に住む宇多川というブルジョワ家庭の車夫となったおじとともに暮らす。太郎が成城にやって来たのは昭和31年のことである。その家庭で太郎は虐待されながら育つ。
太郎は、宇多川家の娘よう子(『嵐が丘』におけるキャサリン)が通う小学校に編入する。汚いなりの太郎のことを当初は毛嫌いするが、ある日体育の時間に運動の苦手なよう子の代わりにリレーに出場し、よう子のチームを勝利に導く。そのお礼によう子は太郎に「鉛筆を二本」与える(ここでも「贈与」の儀式が演じられる)。こうしてよう子との太郎の交流が始まることになる。だがそれは、「至福と煉獄の間を生涯さまようことになる関係」の始まりだった。
宇多川家で女中として働くのが土屋冨美子である。『嵐が丘』における語り手ネリーの役に相当する冨美子は昭和12年の生まれである。この世代で田舎の農家に生まれた多くの女性と同様、冨美子は人生における恵まれた選択肢を持つことを許されていない。「小学校中学校を通じて一番を通すほど成績がよく、最後の受け持ちの先生から高校に上がらないのをたいそう惜しまれた」ほど優秀であったが、女中奉公の身分に甘んじなければならない(最初の結婚に失敗し働かなければならなくなった時には「高校卒」と学歴詐称し、会社の事務職に就く)。おじから「頭に見合うだけの人生にもなんないから」女はむずかしいね、と言われるように、二週間に一度の休日にも、上野をさんざん歩き回った末に、「高校に上がって勉強を続けている級友」を羨むばかりだ。夕闇が迫る中、ひとりベンチに座りながら「源次オジがあのままわたしを東京の高校にでもやっていてくれたら」と涙を流して休日を過ごす青春だった。
冨美子のこのような設定は『嵐が丘』のネリーにはない。ネリーには特権的な語り手の役割は与えられているが、歴史的な厚みを感じさせることはない。この場合の歴史的厚みとは、人生を生きていく過程で心身に積もってゆく澱のようなものである。ネリーは物語の風景をニュートラルに眺めているのだが、冨美子の場合は風景の中に歴史の悲しみを嫌がおうにも感じとる。宇多川家の人間にも重光家の人間にもこのような資質はない。冨美子が抱えるこうした重さは、のちに、ヒースクリフとネリーの間にはなかった関係を、太郎との間で生むことになるだろう。
宇多川家のお祖母さんも登場する場面は少ないが、非常に重要な枠割を果たす。名前が明かされないこの女性は、もとは士族であったが、貧しさから芸者となりのちによう子の祖父の後妻として宇多川家に入ったのである。そのような事情から、家の中に自分の居場所を見つけられずに、肩身の狭い思いをしながら暮らしている。この女性が太郎を宇多川家の世界へと引き入れる。そのきっかけはこうだ。
先によう子が太郎に「「鉛筆を二本」与えたエピソードを紹介した。お祖母さんはよう子から、太郎が鉛筆もノートも血のつながらない兄たちに取られてしまうことを聞いている。その年の夏休み、軽井沢の別荘から宇多川家の人々が帰って来た時、太郎が宇多川家にやって来る。鉛筆のお礼をよう子に渡すためにである。よう子の胸元に自分の左手をつきつけこれを受け取れと差し出す。太郎の手のひらには「三つの小石」が載っていた。
この光景に愕いたお祖母さまは、太郎の継母とかけあって、「お手伝い」の口実で自分の屋敷に引き入れるように取り計らう(のちにお祖母さんは受験校として有名な都立新宿高校の授業料と通学料を太郎に贈与するが、この金は太郎の継母に奪われてしまう)。贈与の本来的な意味を、身体の深いところで感受することのできる人間は、太郎と冨美子と宇多川のお祖母さんの三人だけである。
よう子に一緒になる気があるのなら力になってくれ、とお祖母さんは冨美子に死ぬ前に頼む。継母に金を奪われ自暴自棄になる太郎を、自分のアパートに住まわせて援助する冨美子は、お祖母さんともに太郎に贈与すると同時に太郎からも助けられていた。冨美子は言う。「そのとき自分でも初めてよくわかりましたが、哀しいことにわたしの方ですでに宇多川家のお祖母さまと同じように、太郎ちゃんを頼る気持ちが出てきてしまっていたのです」冨美子もお祖母さまも、ともに切なくも重いものを抱えるこの二人は、太郎というたぐい稀なる人物に救いのようなものを求めている。ここには少女小説が発生するからくりの秘密があるようだ。
宇多川家のお祖母さまと冨美子によって東太郎というファンタジーの種は蒔かれた。それではその種は、いかなる花を咲かせ実を結ぶのか。
反復される贈与・反復される東太郎
昭和41年冨美子のおじのつてでアメリカに渡った東太郎が日本に戻ってくるのはその15年後である。子持ちの男と二度目の結婚をした冨美子と再会した太郎は「まず宇多川のおばあちゃんのお墓に行った。僕が戻って来たっていうんで手放しで喜んでくれる唯一の人かもしれないから」と告げる。この時アメリカでめざましい出世を遂げていた太郎は、軽井沢追分の宇多川家の山荘を買い取る。90年のバブル崩壊のあおりを受けてチェーホフの『桜の園』のように没落が始まった重光家、宇多川家が所有する軽井沢の別荘を買い支えたのも太郎である。崩壊しつつある成城学園の理想の世界を、たった一人で太郎は支えようとする。
「あなたは、あたしに失礼にならない形で、お礼なんかできないの。一生できないの。それがあなたの運命なの」となじらずにはいられない冨美子とつらい別れをした太郎は、冨美子に負い目を持っていて「フミ子お姉さん、ぼく、フミ子お姉さんに一生に一度ぐらい少しはいい思いをしてほしんだ」と心の底から思っている。そう思っている太郎は、日本での自分の仕事の拠点となる事務所の職員として冨美子を雇い、豪徳寺にある「夢のような美しさ」を持つマンションを借りて冨美子を住まわせる。それに対しては、「何一つ期待せずにいたのに、ここまでの人生になったんですもの」と冨美子は、数奇な物語の聞き手である加藤祐介に感謝の気持ちを語る。宇田川のお祖母さんも、冨美子もそれなりに報いを受けたと言えるだろう。そして彼らと同等に太郎から贈与を与えられるのが、ほんの偶然から冨美子と知り合った加藤祐介である。冨美子の話の聞き手の役割を担い、その話を作家のもとへ送り届ける26歳のこの若者は、『枯木灘』の秋幸に対応する人物である(秋幸もまた、『枯木灘』の作品時間内では26歳である)。
冨美子が祐介に太郎の物語を語って聞かせる追分の山荘に、宇多川家の一員である冬絵が新しい物語を伴って到来するのだ。冨美子も祐介も知らない物語が冬絵の口から語られ、祐介は東太郎の物語に文字通り犯されることになるだろう。冬絵は自分でもにわかには信じられない話を確認するために夜の雨の中を冨美子に会いに来たのである。それはやはり東太郎の「贈与」の話であった。「この追分の土地も一緒に、あの軽井沢の土地をまるごとフミさんに贈与したのよ」と冬絵は告げる。「知りませんでした、そんなこと、わたしは」と冨美子は驚くばかりだ。冨美子にできることは、両手で顔を覆い、「両肘をテーブルにつき、肩で浅く息」をすることだけだ。その場にたまたま居合わせた加藤祐介は、つぎのような光景をただ黙って目撃するしかない。
この現場に居合わせた祐介は、心身のほとんどを太郎の物語に引き込まれた、といっていい。彼は太郎の物語の特別な聞き手としての存在にそうとは知らずに仕立て上げられている。祐介のそのような資質を直観的に察しているのは冬絵である。祐介と2人で冨美子のもとを去った冬絵は、ホテルのバーへと祐介を誘い、冨美子がけっして語らなかった物語を祐介に贈与することになる。「あなたね、フミ子さんが太郎ちゃんと関係をもってたっていうのはお聞きになってらっしゃらないでしょう」と冬絵は語り始める。
「冬絵がそれを知ったのは二十五年以上も前のことで」離婚後、会社勤めをしながら太郎を支える富美子のアパートに銀座三越で買った富美子へのプレゼントを渡そうと訪れた時のことである。あいにく富美子は不在だったが、隣の部屋に住む「三十がらみの顔色の悪い女」が顔を出し、蓮っ葉な口調で冨美子と太郎だけに隠された物語をこっそり冬絵に贈与する。
その暴露話に冬絵は当然衝撃を受けつつ、その事実を自分だけの胸の内にしまって二十五年以上の時間を過ごすのだが、冨美子の「真面目なだけでなく、人間としての品性の高さ」に尊敬の念を感じる冬絵はひとつの結論に達する。「好きになってしまったんでしょう。太郎ちゃんが大人になるにつれて、いつのまにか好きになってしまったんでしょう」それを聞く祐介は、太郎と冨美子の秘密を前にして「聞き手の自分が幼すぎたのか、それとも語り手の冨美子が狡猾だったのか」と戸惑い続けるばかりだ。そんな祐介に冬絵は女ならではの意見を語って聞かせる。
複数の語り手による複数の物語が、唯一の証人のような特権的な聞き手めがけて、堰を切って流れる奔流のように到来する。「贈与をめぐる物語」が、物語を受け渡す形で、贈与それ自身を反復する。
加藤祐介はあたかも物語の犠牲者たる自分を喜びとともに受け入れているかのようだ。『枯木灘』の秋幸が龍造の物語に染め上げられそれに魅入られたように、祐介は東太郎の物語に染め上げられ後戻りできない地点にまで引きずられてしまっている。じっさい祐介は、久保という名のいかにも平成現代風な友人とともに属していた今ふうの軽井沢的な世界から自分を切り離し、東太郎の世界へと深入りすることになるだろう。秋幸が龍造を模倣し反復したように、祐介は太郎を模倣し反復する。祐介は太郎を模倣するかのようにアメリカ行きを決意することになる。東太郎の物語の聞き手としてではなく、太郎の物語の語り手として。その物語の聞き手である水村美苗は、『本格小説』というタイトルの小説を書き、祐介を軽井沢に登場させることになるだろう。贈与の物語は反復し続ける・・・・・
そしてはたと思い当たる。「贈与の物語」は「持つ者」の物語であると。「持たざる者」は贈与にコミットすることはできない。太郎は「持つ者」に変貌するためには、蒲田からアメリカに移動しなければならなかった。「持たざる者」への想像力は本作においてはいささか弱いのではないのか。蒲田を中心化するならば「プロレタリア文学」の方向に行ったかもしれないと、私は本作を読みながら思ったりした。仮にも『本格小説』を名乗るなら、なぜ軽井沢や成城ばかりが特権化されなければならないのか。
小説の中で、名門コロンビア大学で日本文学を教えた研究者らしく、水村美苗は本格小説について講釈していたが、それはあくまでも「意識」のレベルにおいてだった。少女小説の精霊は本格小説家という意識家を思考停止状態に追いやったようだ。水村の「無意識」に住まう少女小説家は淫らなまでに欲情していた。少女小説の欲情に同調しえた水村をここでは褒めるべきなのだろう。恐るべし!少女小説の底力!
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