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お文学する司馬遼太郎

「文明と文化」というキーワード

 司馬遼太郎の作品は、「文明と文化」というテーマを巡って旋回しているかに見える。それが司馬の唯一のテーマだとさえ言えるが、司馬の書物のいたるところで、キーワードとして登場しクローズアップされるこの主題について、『アメリカ素描』では次のように語られている。

 ここで定義を設けておきたい。文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまり普遍的でない。

『アメリカ素描』

 『アメリカ素描』は1985年に、「読売新聞」紙上で連載されたが、当時すでにアメリカは「文明」のポジションを獲得していたといってよく、その背景には、共通語としての英語、基軸通貨としてのドルの力があった。なんといってもGDPナンバーワンだったのである(そして現在も)。この経済力および軍事力を威光に持つアメリカは世界に大きな影響力を及ぼしているが、司馬のいう「文明」と「文化」の構図は「帝国主義」と「弱小国」の構図に相当するといえる。幕末期から明治初頭を描いた『胡蝶の夢』においては、この構図は次のようなものとしてあった。

 すでに日本は安政条約によって国際社会のなかにある。しかし国内は幕藩体制が不動で、ひとびとは国内に身を跼めているかぎり、日本がそういう環境のなかに置かれてしまったことを実感できない。わずかに長崎や横浜で異人の姿を見ること、それに対して攘夷志士が慷慨し激昂していることぐらいが、前時代ときわだって変化した点であった。

『胡蝶の夢』

 ここで述べらている「国際社会」が「文明」であり、「幕藩体制」が「文化」である。ひとまずは、「国際社会」が勝者であり、「幕藩体制」が敗者であるとはいえるが、そのような司馬の見立ての根底には、戦後の日本と戦時の軍事体制の構図が重ね合わされていることは留意しておく必要がある。司馬の主要作品の多くは高度成長期の中で書かれ、司馬の言葉はこの時代に規定されている。司馬はこの時期の時代感情と結託し、あるいは良好な関係を築きながら作家活動を行っていた。戦後の価値観が戦前の価値観を駆逐する光景を、歴史を舞台にして再演したのだと言えるし、でるがゆえに司馬作品は多くの人の支持を得たのだとも言える。概ねそういうことではある。合理的な文明が不合理な文化を自分の配下に置いてゆきながら発展進歩するという戦後のシナリオが大筋では演じられている。

 けれどもいくらなんでもそれほどまでにファンタジー的に単純なドラマが歴史の実相ではあるまい。司馬は吟味せずに状況を受け容れる怠惰な知性の持ち主ではないし、戦後の価値観の無批判な肯定は、司馬が繰り返し指摘した徳川体制を無批判になぞるだけだった当時の官僚の姿とさほど変わっているわけでもない。

 合理性と錯覚されやすい大きな潮流というのはある。現在であるなら、さしずめプラットフォームがどうのこうのとか、賃金上昇がどうのこうのとか。それは間違いではない。けれども最近私がよく思い出し、あの大きな潮流は何だったのかと、首をかしげるのは2011年の大震災直後の「これからは経済一辺倒の国のあり方を変えていかなければならない」というかなり本気でいたいけな掛け声のことである。一瞬のファンタジーであった。異常気象のような形で発せられている「これは行き過ぎだぞ」というメッセージから目をそらし、震災前のシステムが続行されている。震災前のシステムは一応「文明」ということになってしまっている。

 司馬の『胡蝶の夢』は、歴史の合理性(文明)の物語として、大筋では読めるが、そこからはみ出ているいくつもの矛盾や不合理性(文化)の生き生きとした表情にスポットライトが当てられ、司馬自身が合理的な常識人である自分を忘れ、不合理性を抱きすくめる非常識人としての自分を受け容れている瞬間がある。司馬がお文学してしまっている瞬間があるのだ。通常は無視されている司馬遼太郎のその部分に注目してみたいが、まずは大状況の確認から。

近代あるいは帝国主義の波

 司馬作品において大きな山脈を形成する「幕末もの」は、日本史的には近代のとば口を舞台とする。西洋の先進国が日本を近代化し、日本は封建体制を克服し脱皮を図るという物語が坂本竜馬や秋山好古のような人物に仮託されて演じられる。そこでは近代科学と近代経済が善のイデオロギーとして、剣法や漢方や朱子学のような古色蒼然とした悪のイデオロギーを撃つというかたちで表象される。「勝てば官軍」とやらで、どうしても勝ったほうが善に見えてしまうのだが、私としてはその構図を大文字(メジャー)と小文字(マイナー)の葛藤の光景に見立てたい。大文字化衝動のようなものが世界を動かしているように見えて仕方ないのだ。最近よく耳にする「承認欲求」も自分を大文字化するふるまいだろう。ことは善悪の問題ではないのだ。優位に立ってマウントを取りたいという話である。GDPが何位かという話も善悪とはあまり関係がない。

 仮に近代思想があるとすれば、それはブルジョワ商人階級の大文字化運動に端を発する。市民社会を基礎づける「自由」や「平等」という概念も、もとを正せば共同体を超える自由を持つ貨幣の自由であり、貴族の所有する10万円という貨幣と中産階級が所有する10万円という貨幣はまったくの平等であるという、物質的な現実が思想というフィクションに転化したものである。

 西洋と出会って日本は近代化したが、結果的に善悪という観念的な効果が付随するとしても、まずは損得の問題ありき、と見たほうがよい。ヨーロッパの人間たちは貿易のために日本へやってきたのである。日本企業の海外進出もまずは損得の問題から入り、結果的に固有の人間の出会いから損得(文明)とは異なる小文字的だが貴重な体験(文化)が生じることもある。そういえば、ジャニーズ問題に関して、経済同友会代表幹事が「こういう問題を起こす企業は世界では相手にされない」と発言していたが、性加害は人権上倫理的にダメなのではなく、商売の邪魔になるからよろしくない、という企業の論理をうっかり洩らしてしまった。

 幕藩体制維持のため鎖国を基本方針にしながらも、徳川幕府がオランダと交渉したのは、島原の乱のおりに、オランダが幕府側につき反乱を押さえ込んだからであった。オランダの幕府接近の背景にはオランダ東インド会社の活動がある。世界において大文字(プラットフォーム)の覇権をどこが握るかという帝国主義競争の一挿話である。じっさいオランダは日本との貿易によって大儲けをした。やがてこの帝国主義の波は激化し、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどが日本との貿易を要求し、幕府は窮地に追い込まれ、徹底した保守派の井伊直之は開国へと舵を切らざるを得なくなる。

 国内においては、虎視眈々と権力奪取を狙っていた薩摩が、奄美大島を植民地にして密貿易などで資金をため込みつつイギリスと手を組みながら旧体制崩壊へと突き進んでゆく。とはいえ表面上は幕府の協力者の顔を装っていた。徳川慶喜は大政奉還後、「薩摩だけは許さない」と一生憎悪し続けた。長州は朱子学的な観念論に突っ走り、テロも辞さない覚悟でいる(司馬遼太郎は子供のころから長州を毛虫のように嫌っていたという)。

 当時の医学界も同様で、代々、幕府の医療は漢方が担っていて、『胡蝶の夢』の主人公松本良順やその実父佐藤泰然、養父松本良甫が習得した蘭学は徹底的に排除された。やがてこの状況は伊藤玄朴の政治力によって覆り、蘭方医学が幕府公認の医療となる。けれども良順は、伊藤が金儲けのことしか考えていないがゆえに、徹底的に伊藤を嫌う。とはいえ、伊藤の存在が果たした歴史的意義を司馬は限定付きで認めている。

 このような殺伐とした歴史的条件の中で、良順たちに蘭学を教えたポンぺや横浜で島倉伊之助とともに働くウィリアム・ウィリスのような良識の持ち主たちも登場する。ポンぺについていえば医師であると同時に軍人だったという肩書が彼を自律的な人間にしていただろうし、ウィリスについていえば彼の母親が敬虔なクリスチャンであったことが道徳性の高い人間に仕立て上げたことだろう。帝国の論理とは異なる論理を肉体的に身につけているようなところがある。司馬がポンぺに対してさかんに用いる言葉でいうと「市民社会」の感覚が中間団体的な機能を果たし、文明よりは文化の美徳の体現者のようにさせているかに見える。要するに貨幣を媒介にした市場における交換というよりは、家族共同体における贈与のふるまいに彼らは近接しているかのようなのだ。

松本良順や司馬がその存在に畏敬の念を感じた関寛斎という人物は、この贈与の資質に恵まれている点で、近代明治の体制から逸脱してゆく。松本良順と勝海舟の大きな違いは、前近代的な贈与と近代的な交換の違いであった。

 良順は、子供のように単純な思想しかもっていなかった。
 かれは忠誠心のつよい男で、その忠誠ということも、食禄を受けたからには恩をかえすという、鎌倉の郎党がそのあるじに対してもつ倫理以外持っておらず、その後の時代や社会の変化はいっさい計算に入れなかった。
「武士は鎌倉風でいいんだ」
 と、ひとにもいった。
 勝海舟のような複雑な忠義というものは、良順にはわからず、わかる資質もなく、わかろうともしない。
 勝にはすでに市民擁護の思想があった。さらには幕府や薩長の次元から超えた近代国家への明快な想定があり、幕府を自主的に解消して薩長ともども(薩長が理解するかどうかはべつとして)あたらしい次元へ参加しようというもので、右の二つが勝の江戸処理に関する基本的な思想だったといっていい。
 勝のこの思想と政治は、幕人のなかでたれひとり理解しなかった。
 ――妻子までもおれに不平だったよ。
 と、勝は語っているが、良順も勝がわからないひとりであった。
 ただ良順には勝に憤ったりした気配がない。
 ――勝さんは、長崎時代、海軍練習所の教頭のような仕事をしていて私はよく知っている。
 と、ひとにも語った。知っているからどうだとまでは、ひとに語らない。
 良順においては、洋学が勝のような思想へ飛躍するまでにいたらず、
 ――わしは徳川が好きなのだ。
 ということで情念が洪水のようにあふれてしまうところがあった。その徳川のために生死した多摩の農民――近藤と土方――がたまらなく好きであったのは、是非もないことだった。新選組や近藤・土方の歴史的役割などを考えるのは良順の柄ではなく、良順にすれば、そういう賢しいことは他の人の領分だというところがあり、考えもしなかった。
 ――松本良順は大愚者である。
 という好意をこめた評が明治後にあったが、あるいはそうであったろう。

『胡蝶の夢』

 松本良順はお文学の風土にどっぷり埋没し浸りきっている。ここに合理性や文明の片鱗はかけらもない。「大愚者」の「情念が洪水のようにあふれ」かえっている。徳川体制が崩壊する合理的な文明のドラマの裏側で、いくつかの不合理な文化のドラマが印象的に演じられていた。次にそのドラマの足蹠を追ってみたい。

お文学全開

 紹介が後回しになってしまったが、『胡蝶の夢』の主要な3人の登場人物についての情報を。

 まず登場するのが佐渡島の島倉伊之助。幼少時から抜群の記憶力を誇り、地元の名士で趣味人でもある祖父は孫を学者にすることを決意、伊之助を江戸の松本良順のもとに預ける。良順の往診時の助手などを務めながら伊之助はオランダ語などを学ぶが、やがて伊之助は良順の語学力を上回り、また良順に真似することのできない漢文を書くことができた。この漢文の素養は、のちに通訳の仕事をするうえで大変に役立った。ただし、祖父の極端な教育方針で、遊び盛りのころに仲間から切り離され、納屋の二階に閉じ込められ、上下する梯子をはずされて勉学を強要された経験から、世間との波長が合わない人間性が出来上がってしまった。あるいは、映画『レインマン』に登場するサヴァン症候群の可能性もあったかもしれない。自閉的だが抜群の記憶力を持つ人間を映画ではダスティン・ホフマンが演じていた。この特異なキャラクターはどこへ行っても異邦人であった。また、女狂いの気があり小間物屋の娘と男女の仲になり、婿養子にされそうになった折には、良順が娘の祖父のところへ赴き、この話はなかったことにしてくれと頭を下げる。「この男は世間じゃ生きていけない」と判断する良順は、実父の佐藤泰然が佐倉に開いた順天堂(順天堂大学の前身)に伊之助を預け、のちには長崎に呼び寄せ、伊之助の特異な能力を伸ばす役割を果たす。伊之助は長崎時代に、オランダ語のみならず、中国語、ドイツ語なども習得し、最終的には蘭、英、仏、独、ギリシア、ラテン、中国と複数の言語をマスターした。しかも留学経験なしでである。伊之助のずば抜けた語学力を証明する次のようなエピソードがある。

 伊之助の異能と学殖にまず気づいたのは日本人より医師よりも、ウィリスのほうであった。
「あなたは、ヨーロッパの医科大学で正規に医学を学んだのでしょう」
 と、接触したその日にウィリスはいった。
「私は日本を離れたことがない」
伊之助が答えると、まずその英語が不審です、日本人で英語を解する者はきわめてまれだが、あなたはどこで学びましたか、ときいた。
「この大気の中に英語が浮遊しています。それを吸ったにすぎません」
 伊之助が大まじめでいうと、ウィリスは頭を振った。自分をからかっていると思ったらしい。

『胡蝶の夢』

 伊之助の師である松本良順は、医師である実父の佐藤泰然の友人の蘭方医である松本良甫の家に養子に入り、松本家を継ぐ蘭方医となって、将軍の担当医を務めるほどの優秀な人材であるが、じつは彼の祖父にあたる藤介は百姓の出で、才覚で成り上がった人物である。この藤介の遊侠的な血が自分の地であると良順は自覚しているし、実際そうであろう。この遊侠の血が弟子たちを引き連れての派手な芸者遊びとなっているし、伊之助を長崎の遊郭に連れて行きもする。重圧から気鬱症を患う徳川慶喜に吉原行をもちかけたりもする。また、新選組と積極的に関わり、「明治後、老残の隊士を保護したり、近藤の墓をつくるのに力を貸したり、明治九年、南多摩の日野の高幡不動に近藤・土方の碑をつくるときに尽力」したり「かれらが江戸にひきあげてから、再起のための金銭の面倒も見た」りする。良順の過剰なほどの他人へのケアは医師のケアに直につながっている。また、良順は被差別部落の人間とも知り合い、部落の頭領の治療も行い、幕府に身分撤廃をもちかけ、それを実現する。こうした振る舞いもヨーロッパの思想の影響が少なからずはあるだろうが、やはり遊侠の朋輩意識から来るものではあるまいか。

 関寛斎は魅力的な人間で、司馬遼太郎のみならず、周囲の人間からも神のように敬われている。関は千葉の銚子の貧しい農家に生まれ、三歳で母を亡くし、村の寺子屋の師匠の貰い子になった彼は、年少のころに順天堂で学んだ。銚子に戻ってくると、村で開業した。その後銚子の富商浜口梧陵と知り合うことになる。浜口は有望な青年を支援して新しい学問を学ばせることに大きな情熱を持っていた。安政五年のコレラ騒ぎの時、日本の医療水準では太刀打ちできなかったことから、長崎のポンぺのもとで最新の医療を学ぶべきだとすすめた。しかし寛斎には生計の問題があった。「すでに三児があり、養父もあり、残してゆく家族の暮らしが立ちゆかなかった。浜口梧陵はその面倒は私がひきうけようと言い、寛斎に旅費もあたえた」。梧陵から恩恵を受けた彼は、徳島の医師となった時には貧しい者からは金をとらずに治療にあたった。また万年山という徳島の歴代の藩主の霊廟である山に登って草をむしりつづけ、藩の権参事がこの山の樹々を切って売り払うという計画を立てたときは一人反対し、諫言書を書いて送った。「この寛斎の諫言書は、明治後最初の自然保護論というべきものだった」。恩人である浜口梧陵が死んで、和歌山県にある浜口家が傾いたときには「寛斎はこれをきいてわざわざ和歌山県まで出かけて行き、債権者団と話しあい、再建の中心になり、家政を整頓して三年後にたてなおしてしまった」。寛斎は七十三歳の時に家財を売り払い、北海道へと渡り開拓にとりかかる。自分の四男を札幌の農学校に入れて、開拓事業を学ばせた。「寛斎は、自分が買った土地を、開墾協力者にわけあたえてゆくという方針をとった。ただし、この方式に寛斎が固執し息子の又一が、札幌農学校仕込みの経営主義を主張して反対しつづけたために真っ向から対立した」。友人の徳富蘆花は「翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であつた。父は二宮(註・尊徳)流に与へんと欲し、子は米国流に富まんことを欲した」(「みみずのたはこと」)と書いた。ここには贈与の論理と交換の論理の衝突があった。寛斎は八十三歳のときに服毒自殺を図った。

 伊之助、良順、寛斎、それぞれが三者三様のあり方で「文明」を逸脱し、「文化」の側に足を踏み入れている。伊之助は卓越した語学力で良順の授業を補佐し、寛斎のような生徒たちに通訳として橋渡しの役割を果たした。また、辞書を出して世界に贈与した。良順は遊侠の徒のように、貧しい者を支援し、孤独な将軍たちをケアした。寛斎は無償の善意を生涯にわたって貫き、司馬遼太郎は「高貴な単純さは神に近い」と評した。ところで、「贈与」に関してだが、孤独な伊之助にとっての原型的な贈与はおそらく祖父との関わりにあっただろうが、肉親との生臭い触れ合いを通しての贈与というべき光景が描かれているので、そのことに触れる。

 世間と波長の合わない伊之助は、例によって、ポンぺから疎んじられ、放校の危機に陥る。どう手を打っていいかわからない良順は寛斎に「たのむよ」と難題を丸投げしてくる。たまたま寛斎が夜泣きそばを食べていたところに伊之助が通りかかったので、そのまま二人はポンぺ邸を訪問する。寛斎は拙いオランダ語と日本語で、ポンぺに対して伊之助の弁護を試みるが、むろん、うまくはいかない。帰り道、焦燥しきって夜目の利かない寛斎を、伊之助は背負って長崎の夜の町を横切って進むとき、「伊之助は、ふと祖父の伊右衛門を思い出した」。やがて寛斎と別れ自宅に到着した伊之助は贈与の意味を深いところで知ることになる。

 が、この夜、寛斎という人柄の温みと体重を背負って何キロか長崎の町を横切ってきたあとだけに、手足が脱けそうに疲れてもいたし、それに、なにか伊之助がかつて味わわなかった感情の粘液が体中に染み出していて、ここで足を洗っている人間が自分以外の別人であるようにも思えている。伊之助にとって突き飛ばされるほどに意外なことは、涙がとめどもなく流れて仕方がないことだった。

『胡蝶の夢』

 このような肉体の密着を通しての肉親のケアにも似た光景を良順も演じている。それは十四代将軍家茂の治療を試みるにあたっての光景である。家茂という将軍は「人間として生きがたいほど正直なたち」だけに、その人生は絶え間ない緊張と苦しみで彩られた。政争の犠牲となり、大老井伊直弼に擁せられて、わずか十三歳の幼さで将軍の地位につかされてしまった。公武合体論や幕府と長州の対立など次々と襲いかかる試練に「自分は非常の時代に将軍になるような器ではない。一橋どの(一橋慶喜)と代りたい」としばしば訴えた。当然体調不良に陥り病床につくことになる。周囲の見立てでは脚気であるが、良順の診断だと心膜炎である。気が休まらず衰弱するいっぽうの家茂の唯一の相談相手は良順ぐらいしかいないが、政長総督の徳川茂承が突如辞表を送ってきたことでさらに病状は悪化する。病状悪化のための看病で良順は睡眠時間を奪い取られることになるが、良順を休ませるために、だが良順と離れたくないために、家茂が口にした要求は「では、こうしよう、ここで寝よ、わしのふとんの中で寝よ」というものだった。将軍との同衾で緊張のあまり、良順は寝たふりをするしかないが、生々しい肉体の接触を通して傷ついた者を癒すふるまいは、寛斎と伊之助の間にあったケアの光景と同じものだろう。そしてそれは故郷という環境に包まれる、ある意味では退嬰的な体験であろう。司馬遼太郎は、健全な批評精神の持ち主だが、ある一瞬では武装解除し、お文学の涙にまみれる自分を受けいれることがある。『胡蝶の夢』のあとがきのなかで、司馬は伊之助の故郷である佐渡島を訪れたさいの感慨を書いている。

 さらにゆくと、低い山ふところにソバ畑がひろがっていた。ソバの北方性とツバキの南方性が平然と同居していて、気持ちのもちようによっては佐渡ほどいい土地はすくないのではないかと思った。そうおもったとき、
(伊之助は島外へ出るべきではなかった)
 という感慨が、涙ぐむような悲しみとともに湧いた。
 こういう自然と人文にくるまれてここで生涯を送ったほうがどれほど幸福だったかわからないという、以上はいわば私が伊之助の保護者であるかのような、ごく平俗な思い入れだったのだが、旅人にそう思わせるほど南佐渡の風物はゆたかでおだやかであった。

「伊之助の町で」

 お文学全開状態である。良順や寛斎のような医師は、医療が経済原理よりもまず、ケア=贈与であるという根本的な原則を思い出させてくれる。ただし、それだけでは不十分で、お文学というおちゃらけた名称が、(公共性のある)文学というまともに見える名称を取り戻すためには、贈与するための原資を準備する必要がある。高度成長時代と違って、人口(歳入)減少時代の文学は、経済政策をも視野に入れる必要がある。

 『胡蝶の夢』にあやかって、医師、ケアにまつわる音楽を。まずはドクター・フックの「セクシー・アイズ」。懐かしのAOR。当時はふつうに聞いていたが、今聞くとこのジャンルはなかなかいいと思える。リード・ヴォーカルの左側のマラカス男がゴキゲンでなかなかいい。

 次いで、ホイットニー・ヒューストンの「Take  Good  Care  Of  My Heart」。ジャーメイン・ジャクソンとのデュエット・ナンバー。ホイットニーのデビュー・アルバム収録曲。当時は大型新人が出てきたと思った。

 次いでカシーフの「I Wanna Be Your Doctor」というフレーズが印象的な「Condition Of The Heart」。人生において、1985年暮れから1986年2月ぐらいまでが最もFEN(現AFN)を聴いていたと思われるが、そのころ毎日のように流れていた。いわゆるヘビーローテーションであった。

 このころのFEN(現AFN)ヘビーローテーションで印象的なのがアレサ・フランクリンの「Who’s Zoomin’ Who?」である。アレサ・ナンバーではマイナーであるが、好きなので紹介したい。


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