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ニュースに気持ちを、引きこまれる。

大好きなアーティスト、原田郁子さんの歌詞にもあるように。

『この星の先には  にくみあって ころしあう人がいるんだって
ほんとうに? ほんとうにほんとうに? ニュースはみすぎちゃいけないね』

思いのほか、私たちは目に見えないものの影響を受けてるから
暗い思いのするものを、身近に置いていてはダメだと思う。

この考えは、きっと正義感のある人からしたら、
なんて無責任なことだろうと思われてしまうとは承知で言いたい。

世界のニュース、日本のニュース。
たくさんの人が、なくなっていると言う。
たくさんの人が、泣いていると言う。
たくさんの人が、悲しんでいると言う。
その惨状を、伝え続けている。
コメンテータは、『この状況をどうにかしないといけない』と言って、
頭を下げて、そして番組は終わってしまう。
私は、その惨状に心を置いてけぼりにされながら。

でも、ふと思ってしまう。
私がこのニュースを見るということで、私はたくさんの人を不幸にしてしまってるんじゃないか、と。

一つ。
私の中の、私の真実。
私の世界は、私が作っている。
私が、ニュースを見ることで、私は、無残にもなくなってしまう人を作っている。(今こうして、文字にする間にも、私はそれを想像してしまうことに
とても抵抗感を感じる)
みんな、それぞれの世界を持ってる。
これは、同じフィールド(地球)の中で、違う価値観で生きてる、
ということではなく・・・
私の世界には、私しかいない、ということです。
これを読んでいる、『あなた』も私です。
そして、これを書いてる『私』はあなたです。
『むむむ?』ですね!笑


私は、昔(今も完璧に抜け出せてはいないのだけれど)罪悪感がとても強く
幸せになること、楽をすること、楽しくなること、がとても苦手でした。
かといって、真面目に生きてきたわけではないのだけど。
いや、はっきり言って、他の人から見たら、かなり自由に生きているように見えたでしょう。
でも、自由に生きているようで、とても不自由に生きていたんです。
不自由だったから、自由に振舞うことで、自由になりたかったんです。
(あなたの周りに、神経質に自由じゃなくなることに敏感な人がいたら、
その人は、とても不自由に生きてる人なんだと思ってください。今が自由だから、自由に執着してるんじゃないんです。今が自由じゃないから、自由に執着するんです。)
自由に生きていきたいのに、いつでも罪悪感があり、そして『どうして罪悪感を感じて生きていかないといけないのだ!』と、他人に怒りを感じなから生きていました。

どうして怒りを感じていたのか。
それは、私の前提は
『みんな苦労して、我慢して、生きてる』
と思っているからでした。
みんな苦労して生きていて、基本的に嬉しいことより、悲しいことが多い中で生きていると思っていたので、自分が幸せになれば、きっと妬まれてしまう、という考えがあったら。
だから、幸せになりたいから頑張っていたとしても、そしてそれが報われたとしても、私は心から満足感は得られなかった。

幸せ=妬まれる  

という、形式が出来上がっていたから。
ああ、なんという迷路。
私の世界に、幸せな人なんていなかったんです。
みんなが悲しんでる。みんなが泣いてる。
苦しい。辛い。
それが、私が住んでいる世界でした。
その世界では、ニュースでたくさん人がなくなっていて、
誰にも、この世界は変えられない、という絶望感で溢れていました。
誰かが、『この真実から目を背けるな』と怒っている。
慈善活動を促すために、無残な画像で訴えかけている。
『自分だけ幸せなら、それでいいのか?悪魔め!』と罵ってくる。
私たちは、常に罪悪感に苛まれ、今の自分のささいな幸せにも
影を落とそうとする。

私はもうそんな世界を変えたい。
私の世界から、そんな悲しいことはなくしたい。
私は、私を愛しているから。
この文章を読んでる、あなたも愛しているから。
だって、あなたは私だから。
だから、ニュースを見るのをやめたんです。
だだの逃げだ、現実逃避だ、とういう声も聞こえそうですが。


これからも、私は、私の世界で
今これを読んでいる『私たち』を幸せに描いていこうと思っています。
やりたいことをやり、太陽に向かって伸びる植物のようにのびのびと、
愛に包まれ、何一つ不安もなく、心曇ることもない。
国境もなければ、戦争もない。餓死もなければ、痛みもない。
子供達は笑顔で溢れ、未来は明るい光で満たされている。
みんなが手をつなぎ、そして笑っている。
そんな世界を、私は描きます。
 



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