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『哲学の門前』(吉川浩満 )

私は、吉川浩満氏の『哲学の門前』を読んでいるうちに、ある感覚に襲われた。そして、この感覚はどこかで体験したことがあるという気がした。幽かなデジャヴである。
読み進むうちに思い出した。私が抱いた感覚はYMO高橋幸宏氏の『心に訊く音楽、心に効く音楽 私的名曲ガイドブック』を読んだ時のものと同じだったのだ。一言でいうと、どこか物悲しいのである。
といえば、怪訝に思われるに違いない。初めに断っておくと、吉川氏の著作とユキヒロの本はほぼ無関係である。そもそも扱うものが哲学とポップ・ミュージックで全く違う。だが、奇妙なことに何だか両者は似ているような気がしたのだ。似ているのは内容ではない。語り口である。一言でいうと、どちらも実にセンチメンタルなのである。

では、どこがセンチメンタルなのか、読んでいる時の感覚なるものを説明するのは実に野暮な気はするのだが、少し敷衍してみよう。

さて、ユキヒロの本は、単なるレコードガイドではなく、友との出会いの物語でもある。言うまでもなく、細野晴臣や坂本龍一、加藤和彦やユーミン、松本隆などとの。
たとえば、細野氏との出会いはこうである。
慶応大学に在学していたユキヒロの兄が軽井沢三笠ホテルでパーティーを主催する。そのパーティーで細野氏と知りあい、ユキヒロの実家の別荘に細野さんが遊びに来たというのが、二人の出会いだという。何だか、生れも育ちも何から何まで違いすぎて溜息の出るようなエピソードだが、そんな感慨はどうでもいいだろう。
加藤和彦氏は、言わずと知れたサディスティック・ミカ・バンドの結成メンバーで、後にユキヒロが加入したのは御存知の通りである。
教授と出会ったのは、彼が達郎のバックでキーボードを弾き、ユキヒロがミカ・バンドで日比谷野音に出演した時だという。教授の『千のナイフ』のジャケット写真は、ユキヒロが服のコーディネイトをしたそうだ。
印象的なエピソードとして、加藤和彦氏は「空が青い、と歌って、幸宏みたいに悲しさを表現できるような人は他にいないよ」と言っていたという。
ユキヒロ自身が、僕は音楽に淋しさや悲しさ、恐怖や孤独を求めているのだと著作の中で語っている。
また、私の記憶が正しければ、かつてラジオで「僕は常にネガティブに物事を考えてしまうんです」と語っていたこともある。

『哲学の門前』に戻ろう。
吉川浩満氏が語ると、やはり全てのエピソードがウェットになるのである。以上のように、ユキヒロは、それを自覚し、音楽にそれを求めてさえいるのだが、恐らく吉川氏にその自覚はないのではないかと思われる。
だが、見てみよう。
氏は、『哲学の門前』を、初めて行ったアメリカであったタクシー運転手イシュメールの話から語り始める。
彼のことが忘れられないのは、イシュメールが、タクシーを運転しながら盛んに氏に話しかけ「Call me Ishmael.(イシュメールと呼んでくれ)」と言ったからである。これは吉川氏にとって天啓だった。当時の座右の書であったメルヴィル『白鯨』の出だしと一緒だったからである。
彼は、かつて海軍にいて横須賀に住んでいた。日本人である吉川氏とお喋りしたがったのもそのためであろう。氏が帰国すると、イシュメールから封書が届く。便箋には秋には日本に行くから連絡すると書いてあった。しかし、いつまで経っても連絡は来ず、返信した手紙は宛先不明で戻ってきた。それっきりである。
そして、大学時代の友人Fとの出会い。彼は、イシュメールの話をすると、何故か反発し、それがとても印象的なのだが、彼は若くして亡くなってしまい、あれがいったい何だったのか、もう一度問い質すことは出来ない。

そして「《幕間》君と世界の戦いでは」と題したエッセイでは、ゲンロンカフェでのAIに関するイベントで「人間は仮想現実などで完結できる存在ではない」と東浩紀氏に強く指摘された想い出を語る。それはどこか父親に叱責されたかのようなニュアンスを感じる。大事なイベントで失敗して落ち込んでいる著者が目に見えるようである。恐らく、吉川は東氏にいい所を見せたかったのだと思う。だとしたら、イベント的には大した瑕疵ではなかったとしても、氏にとっては大失敗である。
また、カフカと加藤典洋氏の著作を取り上げ、カフカが残したあるアフォリズムについて坂口安吾の『堕落論』を思わせる考察をし、それはとても興味深いのだが、なんと、加藤典洋氏は本書の執筆中に亡くなってしまう。

そして、盟友山本貴光氏との出会いである。(ここで縁起でもないことを言うのはやめよう)
大学のゼミで知り合った二人は既に「ドゥルーズ=ガタリ」と揶揄されるほどに切っても切れない関係である。影などどこにもない。
しかし、吉川氏は、彼の知的探究の才能に対して抱いている自分の嫉妬について語らずにはいられない。やはり、ウェットなのである。

さて、吉川氏は「なにがなんだかわからなくなり、根本的にものを考え直さなければならなくなる状況を哲学のはじまりとして想定する」と語る。
『哲学の門前』は、所謂哲学書でも、哲学の歴史を語る本でもない。吉川氏が、ある失敗や戸惑いを経験し「なにがなんだかわからなくなり」、そのパニックから脱出するためにものを考えざるを得なくなったという、その体験談が中心にある本である。そここそが「哲学の門前」なのである。
とはいえ、哲学の歴史が本書と全く無関係な訳でもない。
何故なら、哲学とは、著者が語るように、イオニア地方(地中海東岸)から始まった最初の科学である。諸学問は独自の対象と方法論を身につけ哲学から独立していく。自然科学や社会科学などとして。それが哲学の歴史である。
つまり、哲学とは学問にとって出会いと別れの場なのである。まるで『哲学の門前』のように。

さて、ユキヒロのファーストアルバムのタイトルは『サラヴァ!』という。
『サラヴァ!』は「あなたに幸がありますように」という意味であり、日本語の「さらば!」ではない。しかし、よくそう誤解されたという。
また「ファーストアルバムが『サラヴァ!』(さらば)というのもぼくらしく皮肉が利いていて良いかなと思う」と語っているのだから、狙ったわけではないにしても意識はしているのだ。
人は出会い、いつか必ず別れる。

吉川氏は、本書の最終章でカフカの「掟の門前」を取り上げている。
ある男が掟の門にやってくる。門前には屈強な門番が立っており、中には入れぬと言う。男は落胆するが、よしと言われるまでその場で待つことにした。男は何年も待ちつづけ、ついには寿命が尽きて死んでしまう。
哲学の入門書然としたこの本で、しかも『哲学の門前』と題した著作で、吉川は、門に入れず死んでいった男の話を取り上げる。
勿論、続いて、どうしたら哲学の門に入れるか(哲学に入門出来るか)について指南もするし、あるいは「門前の小僧」でも良いではないかと言うのだから、読者は悲観しなくともよい。だが、それでも「哲学の門前書」を、カフカの「掟の門前」で締めくくるのが、吉川らしくて、逆に痛快である。


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