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会社組織において「使える」とか「使えない」なんていえないハズ。

ぼくたちは誰のために「仕事」をするんでしょうか。

「別に誰のためでもない生活のため」という方もいれば「自己実現のためだ」という方もいらっしゃるでしょうし、各々が思う通りの生き方を実現するためには生活をしなければならないわけですから、結果的に生活を送るための身銭を稼ぐために仕事を手段として取り組んでいる、なんて方が多いのではないでしょうか。かくいう、ぼくだって、その内の一人です。

そんなことを言いながらも、人生には各個人に裁量が与えられています。これがないという人はいないはずです。隷属しなければならない状況など日本にはありませんし、生き方自体も多様になってきていて、専業主婦も旧来的な価値観だと認識されるようになって久しい現代では、見るからに不自由な縛られてばかりの生活をしている人は多数派ではありません。(人数の多寡によって良し悪しを決めようというのではありませんし、それが本意ではありません。あくまでも生きる上での選択肢は誰もが持っているものだといいたいだけです。)

そんな折、こんな記事に出会いました。

人に対して「使える、使えない」を就労環境の中で使ってしまう人について言及されている記事なのですが、ぼくはこれまでの就業環境において「使えない」と評価されることが多かったと自覚していますし、同時に、態度としても明確にそれを出されていたと認識しています。もちろん、これはぼくが「受け取っただけ」のものですので、相手側からしたら「そんなことはない」ということもあろうかと思いますし、「うん、まったくもってその通りだよ。」なんてことも、どちらもあるものだと思っています。

記事内では「使える」「使えない」と評価する組織に対して、他責風土のある「時代遅れ」な組織であると述べています。その評価が合っている合っていないの前に、そのような言葉や表現を用いている姿勢や態度を認められない、というのがぼくの気持ちです。もちろん、ぼくも聖人君子ではありませんから、過去には「いまのぼく」が否定したくなるような姿勢や態度を取っていたようにも記憶していますし、それを恥ずかしく思っているのです。

以下にあるように、相手の短所を見ようとするのか、長所を見ようとするのかによって、姿勢や態度は大きく異なってきますが、何よりも長所を見つけようとする姿勢や態度は「客観的な魅力を見つけて評価する態度」そのものです。短所はどうしても目につきやすいものですし、それを評価している自分は随分と感情的・主観的に評価をしていることが多いことにも気づきますし、過去の自分もそうであったと自覚してもいます。

部下を「使えない」と言っている上司がいるならば、その方は相手の短所だけを見ているのではないでしょうか。しかも、それは主観によるものが大きい場合があるようにも思います。明確で、客観的な根拠に乏しいのではないでしょうか。ほとんどの人には、何らかの長所があります。それを見つけるのが、上司の仕事のはずです。人本経営では、役員や管理職は支援型リーダーであることが必要と考えられています。部下の個性や持ち味、特徴やよいところ、長所をいかに引き出すことを重視しています。

得てして、多くの組織にいる人たち、技術的・知識的にも多様で複雑なものを保持している人たちは、組織内や業界内にいると評価が内政的になってしまいがちで、好き嫌いの要素が強くなってしまう部分があります。そうではなく、特徴的な部分、その人だからこそ持ちうる魅力的な部分に対してどうフォーカスし、取り上げ、周囲に対して示すことができるか、さらに外に対しても広げていくことができるか。組織であることの強み、魅力は、そんなところにあるのだと認識しています。

なぜなら、個人でやるのであれば、その個人が自分の強みをドンドンと発信していけば済む話ですが、組織になると霞んでしまう人も出てきたり、強い光を発してしまう人だけが目立つような状態になってしまいます。そうなってしまうと、組織に属する人たち同士で短所ばかりが目につき、おもしろくない情報が飛び交うような環境や状態になってしまいかねません。その行末は足の引っ張り合いであり、蔑み合いであり、いがみ合いで、そんな悲しいことはありませんし、そこに「居場所」を感じる人はいるとは思えません。

その中でも居場所を感じられる人は「たくましく強い人」なのでしょう。だけど、ぼくたちが住む、この国にはそんな人だけがいるわけではなく、ぼくたちは他人から認められなければ肉体的な意味ではなく精神的な意味での「死」を体験してしまうことになります。そんな組織に「心理的な安全」があろうとは思えません。

「心理的な安全」は、組織における評価制度もそうですが、中の人たちの認識や風土、雰囲気や環境、それぞれが有機的に絡み合ってこそ成り立つ「空気」です。その空気を成立させるために必要なのは、互いに称賛でき、尊重しあいつつ、指摘しあえる人間的な尊厳を前提にした「対等な関係」の構築が必要になります。対等な関係は一朝一夕には出来上がるものではありません。

相手の取る行動や言動を尊重した上でこそ、「対等な関係」は成り得るものだからです。それがどんなに難しいのかは、小さな子どもと対峙することを想像すれば容易かもしれません。彼らは体はもちろん、思考することも、行動についても未熟です。未熟ではありますが、未熟な存在ではありません。彼らの小さな体躯の中にだって、人格があり、思考があり、思考を基にした行動があります。それを、体格も経験も多いかもしれないからといって、大人がマウントを取るようなことがあってはいけないはずなのに、それを自覚している人はどれだけいるでしょう。

自分と生活を共にしているとかしていないとか、そんなことも関係ありません。小さな人格を認め、彼らの言動や行動を尊重できないことには、対等な関係は築けません。それはつまり、関係の破綻も意味するかもしれませんし、持続可能性を自ら手放していることにも成りかねません。それは、どんなに大きな組織であろうと関係はなく、互いに尊重をできる姿勢や態度を保持している人、保持できる人をどれだけ増やせるのか

理想論に聞こえるかもしれませんが、ぼくはそれをあまりにも気高い遠い世界にある理想だとは思いません。実現できる上にやるべきある現実論だと考えています。少しずつかもしれませんが、けど着実に、対等な関係の先にある賞賛しあえる関係を築ける組織を形づくっていきます。


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