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何者でもないのに、というお話

少し前に夫婦間で起こった会話から思い出したことを書いてみようと思います。

先日僕が主催となって開催したイベント #スポーツの未来に僕たちができること (@新潟経営大学)の取材でラジオやら新聞やら各種メディアに取り上げてもらう機会が多くなった際に、 #我が家の嫁が述べました

「あんたは何者なの?笑」

いや、至極もっともだなぁ、と思った反面、望んでいる形になっているとはいえ、仕方ない部分もあるんだよなぁ、と。

世の中で各種媒体に個人名が載るというのは決して多いものではありません。しかし、それが“すごいこと”なのかといえば、別にすごいことでもなんでもない。

日本の中で活字媒体に掲載される企業の代表だとか、特集を組まれる人というのは望んでいる部分と仕方なくという部分があるんだな、と感じました。

決して虚栄心にのみ囚われているが故にメディアへ露出しているわけではない、ということです。(中にはそういう人もいるかも知れませんが…)

今回の僕でいえば、イベントの認知をとにかく広め、少しでも多くの人に情報を届けたいと考えた際に必要な行動だったというよりも、ただただ必死になった結果としかいいようがありません。

確かにイベントの周知や認知を得るための行動として望んではいるものの、それを得るためには個人名を取り上げられると言うリスクを承知の上で臨まないと得られないことなので仕方ないよね、と言うことです。

メディア側も取り扱うに値するものだと判断しているからこそ、取り扱ってくれているわけですし、そこに匿名で顔を伏せた状態で掲載されたところで、そのリスクを取ってもいない態度が共感を得るとは到底思えません。

顔や名前を出すこと、動物でいえば腹をさらけだし、無防備であることを相手に見せることで信頼を勝ち得ようとするのとを同じような気持ちで僕は今回掲載されるための行動を繰り返しました。

20代の頃に思っていたメディアへの露出というものと、実際に30代でそれを経験してみて、それまでの認識というか前提を少し改めなければならなかったなぁ、とも思ったりして、結構面白い経験をしたというのが正直なところ。

そして、20代の頃に憧れにも似た感情を抱いていたメディアへの露出は、思っていたよりも甘美なものではなく、望む気持ちに仕方ない気持ちを足し合わせたようなもので、出ることによって何を知ってもらいたいのかという意味での後ろ盾を持っているかいないか。

言い方を変えれば、何のためにリスクを取って露出するのか、ということであり、そこが明確になっていないのであれば、メディア露出するというのは避けたほうがいいようにも思います。

だから何者なのだ、というよりも何者としての姿を見せるのかということが明確になっているかいないのかによるんじゃないかな、というのが顔を晒しながら過ごしている僕の実感です、というお話でした。

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