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あたらしい生活

 なんだか忙(せわ)しない。

 この4月から我が家の就業環境や保育園環境が変わることから、4月の1ヶ月間は適応期間として設定しなければならない。

 我が家の環境なんて、他の人たちからすればどうってことのない他人のことなので、ソレをひけらかしたところで助けをもらえるわけでもなければ、考慮をしてもらえるような状況になるわけではない。

 むしろ、助け舟を出してもらえたとしても、逆に困ってしまうのは自分たちなのだ。なぜなら、我が家の問題だからこそ、我が家の面々が適応し、順応していく必要があるからだ。

 忙しなく、逸(はや)る気持ちを抑えきれないような状況の中で、やることなすことが過ぎゆく時間の圧力に負けてしまいそうになることが増えており、焦る気持ちとは裏腹に時間を要してしまうことが増える。

 いわゆる「遅刻」なんて現象・結果もその一つだろう。

 遅刻をすることは「いけないこと」なのだと小学生に上がる頃から言われ始め、中学生になり、それなりに生活をする中で刷り込まれた認識が「遅刻をするのは駄目なこと」だった。

 ちょっと悪そうな3年生なんかが堂々と学校脇の道路を遅刻しながらも歩いて投稿してくる様子を見ていた当時のぼくは「カッコ悪い」ぐらいに思っていたのだが、果たしてそうなのか。

 小学校入学から中学校卒業までの9年間を「義務教育」ということを、それらの学校を卒業してきた人ならばご存知のことかと思う。そして、それは養育者の義務であり、被養育者である子どもたちの権利である。

 もっと正確に言うと、憲法上は第一項においてすべての国民の教育を受ける権利について言及し、第二項で教育を受けさせる義務について記載されている。

憲法26条
(1) すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
(2) すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 別にここで憲法論をやりたいわけでも何でもないのだけれど、これに照らし合わせると、遅刻をしようがしまいがすべての国民は教育を受ける権利を有することになりますから、遅刻をした方と言って廊下に立たされ、その時間を奪われることは憲法違反ということに。

 いや、ここで考えたのは、遅刻をどうにかしなければならない理由って、どんなものだろうか、なんて素朴なことだ。


 ぼくは遅刻をしない方だ。

 むしろ、時間に余裕を持って行動できていないと気持が悪くなるぐらいに遅刻に対して敏感になってきたのだけれど、最近になって、少しその考えを改めているところで、それほどまでにキツキツと時間に対して制限を設けて生活をすることにどんな態度であるべきなのか。

 「時間を守れない=約束を破るコト」などと言われてきたこともあるのだけれど、ぼくはどちらかというと待たせる側ではなく、待つ側の立場になることが多いため、これで言うところの約束を破る人間ではなさそう。

 逆の立場として申し上げるならば、別に時間を遅れてくる人がいたとしても、憤慨するようなことはないし、したこともない。

 「ソレほどまでに大幅な遅れをみせる人たちと付き合ってこなかった」が適切な言い方なのかも知れないけれど、相手側が遅刻をした、もしくはしてきたことに対して、「ふざけるなよ!」などなったことはない。

 あ。一度あった。

 それはある企業を受験する際に、ぼくが既に当該企業の社屋に着いていたのだが、入り方に戸惑ってしまい、結果として遅刻をしてしまったことがある。

 その際に、相手側はひどく怒っていて、それはもう憤慨していた。

 よくよく考えると意味がわからないぐらいに激怒していて、会議室のような場所へ通され、しばらくしてから入ってきた担当者は挨拶もなしに、持っていた書類をテーブルに向けて叩きつけたのだ。

 バンッ!と叩きつけられ、散らばる書類をみながら状況を飲み込むのに時間がかかったのだけれど、「あぁ、この人はぼくが遅刻をしたから怒っているんだな。」なんて具合に、ゆっくりと理解して言ったのを思い出す。

 この時、ぼくの立場がいわゆる非正規雇用(正しくは個人事業主なのだけれど...)で、「正規雇用してもらうため」の面接の機会を得ていたところだったから、相手はぼくの立場が弱い、つまり「面接の機会を設けてやっている」と思っていたのかもしれない。

 在中していた職場から推薦してもらい、いろいろと時間調整した末、その時間に面接、という流れになっていたので、弱い立場だったのかもしれない。

 「いやいや、事故などで遅れてしまった場合もまったく同じような態度や振る舞いでこられるのだろうか...」なんて風にして、10分ほど遅刻した身でありながらも理不尽な状況を否定的に見ていた。

 実際、推薦をしてくれた職場の長には「遅刻があったとはいえ、あの態度が前提になるのであれば、受け入れることはできません。」とハッキリ伝えたのを覚えている。


 遅刻云々でえらく長いこと書いてしまった。

 時間はものすごく大切なものだ。社会的な影響力が大きくなればなるほど、その意思決定に関わる人数が多くなればなるほどに、それを決定せしめる人の時間は貴重だが、別にそうではなくても、ぼくみたいな一国民の時間だって、その人と同じように大切なわけだ。

 一国の総理大臣とぼくの時間が同じ価値かといえば、「等価」ではないだろう。しかし、それは立場によるもので、立場をなくしたもの同士、一個人としてみた際には違いなどあり得ない。

 では、総理大臣の「個人としての時間」などいつあるのか、なんて話にもなるが、辞めてしまえばそこからはいつだって「個人の時間を作り出せる」はず。つまりは、当人がやりたくてやっていることなのだから、比較するものでもないし、卑下するものでもない。だからと言って、尊重しなくていいことにはならないのだけれど。

 「遅刻」は共に時間を共有する相手のことを束縛することになるため、しないほうがいいことなのだけれど、5分や10分程度の遅刻は誤差の範囲内なのだろうから、目くじらをたてるようなことはしなくていいはずだ。

 誰でも彼でも遅刻をするようになってしまうと、電車だとかバスだとかが時間通りに走ってくれないから、それによって困ることが増えるのかもしれないけれど、あまりにも不寛容な態度で、求めすぎることもどうなのか...と思ってみたりもする。

 キッチキチの時間を追い詰めるような生活なのではなくて、例えそうだとしても「豊かさ」を実感できるような生活がしたい。淡い希望なのかもしれないけれど。

 それは、道端でタンポポ見つけたことに喜びを感じられるかどうか。そんなことで変わるような気がするし、自分はそうでありたいとも思う。


今日もお読みいただき、ありがとうございます。ギスギスするのって、「余白」がない時だから、どうにかして余白を作るようにしていこうと思います。


遠藤 涼介/Endo-san (@ryosuke_endo

#スポみら (元 #スポーツの未来に僕たちができること )オーガナイザー。 第一弾、新潟経営大学イベントの資金調達を目的に行ったクラウドファンディングは3サイトで募集し、すべて目標達成(総合達成率140%)#新潟 を #許容度の高い エリアにすべく活動中。


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