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話をしやすい雰囲気はボトルネックを炙り出す態度であり姿勢だ

どうも、えんどうです。

小学校一年生になった長男の勉強に付き合うようになり、さらに名前を漢字で書く機会が極めて減少したことから、自身の名前が漢字で表記されているのに対して違和感が生じてきているので、試験的にひらがなでいくことにしましたが、案外しっくりきているので悔しいです。

さて、(こんな風に書き出すと、仕事しっかりやってます系の人から来るメールみたいな雰囲気が出ますね...w)テレワークが前提になりつつある世界線の中にいることができているぼくですが、この世界線に所属できていることは全く不満がありません。

むしろ、この世界線が実現されたことに感謝しているぐらい。

だからといって、ぼくは会社のオフィスが嫌いなわけではありません。むしろ好きな部類で、仕事環境に最適化されている環境だからというのもありますが、あの場所に行くからこそスイッチを無理やりにでも切り替えなければならない状況が好きなんです。

あとは、あの場所へ行くまでの過程、つまり通勤ですね。新潟の場合は自動車に乗って移動するのがベースですが、車で会社へと通勤する中でリズムやタイミングを整えながら向かっていたってことに、通勤時間がなくなってから気付きました。

通勤時間がなくなることによって、自らのリズムを整える・準備する時間をどこかで確保しなければなりませんが、どうしたら構築できるのかを日々模索中。

いまのところ、日常のランニングを含めたワークアウトになるのだと思います。というか、それしかありません。あとはコーヒーを飲むぐらいでしょうか。本当にそれぐらい。

リアルに人と会う時間・手間が大きく減少

テレワークが前提になってきて、それなりの月日が流れてきているのですが、改めて思うのは人に合わずとも、仕事を始めとした色んなことはドンドンと進んでいくし、進められるようになっていなければならないわけです。

それまでは当然のように「会いにいく」ことが必然的だったのにもかかわらず、実現が困難になった瞬間から代替手段として「待ってました!」と言わんが如く、Webミーティングが主流へと躍り出ました。

これによって人に会いにいく「時間」「手間」「空間」が削りとれるようになったため、テレワークで仕事ができる人たちは、これまで以上に業務や作業に対してのめり込むことのできる状態を確保したことになりますし、これまで以上に「時間」ではなく「成果」を求められるような心持ちが強くなっていると感じるのは、ぼくだけではないでしょう。

Webミーティングツールについては、それまでもなかったわけではありません。ただ、これまでと変わったのは使用者側である僕たちの姿勢や態度、ひいては件の情勢という状況がそうさせました。

結果として、余程のことでない限りリアルな場で誰かと接する機会が少なくなってしまい、打合せや会議などもそうですが、会社に出向くことで得ていた同僚との会話もなくなったことの一つです。

話しかけられる雰囲気

もちろん、ずっと画面共有などしながら仕事をすればいいようにも思いますし、そうでなくとも「ちょっといい?」みたいな形でWebで繋げば済む話でもあります。また、それができる時代なのだからやればいいのです。

テレワーク中だとしても、他人から話しかけられる雰囲気を醸し出せるのかどうか。

ぼくはこれ、案外重要な資質というか素養みたいなものだと思ってます。オフィスでも話しかけづらい人っていたじゃないですか。明らかに機嫌が悪くて、「私は怒ってるんだぞ」というか「察してね」って空気を出す人。

そんな人のことを、ぼくは「雰囲気かまってちゃん」て名付けているのですが、そんな「雰囲気かまってちゃん」が存在し得なくなった世界線の中で、逆に話しかけやすい雰囲気を持っている人って、移動や場所の制限がなくなってコミュニケーションコストが安くなっている今だからこそ、貴重な存在になりえると思っています。

何のためにコミュニケーションを取るのか

そもそも何のためにコミュニケーションを図るのかといえば、雑談でも商談でも「何かしらのボトルネックを解消するため」だと理解しています。

コミュニケーションが円滑に取れない場合には、商談であれば提案だったり、仕様だったりというクリティカルなことが「決められない状況」に陥ってしまいますし、雑談でもチームの関係性を構築する上での「余白」を設けられるのかどうかは、創造性(想像性)を育む際には必須要件ではないかと思います。

雑談の場合は、一見すると「無駄」のように見えますが、それを「無駄」とするのか「余白」とするのかによって、明らかにチームや企業間における「連動性」を保てるかどうかは利害関係が生じる間柄であればあるほどに、ボトルネックの解消が重要であることに相違はないでしょう。

そのボトルネックが何であるのか、そのボトルネックとを炙り出すことができるか、炙り出そうとする人たちであれるのか。

そのための前提条件になるのがフラットでフランクでありつつも、きちんと詰めるところは認識を合わせつつ詰めていくということを叶えるための「話しかけやすさ」ではなかろうか、と。

なので、話しかけられやすい人間であるために、本日も懸命に生きてやろうと思います。

それでは、また。


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