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他人の幸福と自身の幸福度の関係性を考えてみた

ぼくには妻と、3名の子どもたちが自宅を共にし、暮らしています。

そこで、ふと思ったのですが「他人の幸福は願うべき」なのか、と。

「なんだ、唐突だな」と思いましたか。理解できます。ただ、ぼくは養育者であり、保護者である立場なので、息子たちの幸福を願って止みません。

健康的で文化的な最低限どの生活をおくれるようには仕組み化されている日本ですが、それだから息子たちが幸福になれるのかどうかはわかりません。

幸福は本人の価値観の総和であり、生き方ですらあります。

何に対して幸福を感じ、どんな風に接したら幸福度が上がるのかは、人それぞれに異なるでしょうから、均一的な対応をされたところで、10人なら10人が同様の幸福度になるのかといえば、なりはしないでしょう。

高級な雰囲気のお店で、とても高価な料理と、その料金に見合った付加価値としてのサービスを受けることで満足度が上がる人もいれば、自宅で家族が顔を合わせて食事をできることで満足度が高い人もいるでしょう。

「〇〇をしたから」といって、必ず誰かの幸福度が上がるだなんてことは言い切れないわけで、裕福だから幸福、貧しいからといって不幸だというわけでもなさそうなことは、想像をしてみれば、それとなく理解はできそうです。

他人の幸福を願う

他人の幸福を願うのは、果たして自身の幸福度を上げることになるのでしょうか。

『他人の幸福を願うだけで不安が減少して精神状態が良くなることが判明』とする記事が4月にGIGAZINで紹介されていましたが、これは幸福度に直接関係しているというよりも、不安が少し解消されるため、幸福度に少なからあず影響がありそうだ、といえる程度なのかもしれません。

他人の幸福を願う態度を保つだけで不安が和らぐのであれば、自分以外の誰かが幸福になることを願う行為は、幸福度を上げるための一助になるのでしょうか。ちょっと考えてみます。

他人の幸福を願う態度は、成功を願う態度だともいえ、それを支援することにもつながりそうです。行き着く先は、問いとして「自分がそれ(他人の支援)をすることに満足感を感じるのか」に集約されるのではないか、と思うのです。

ぼくの考える一番身近な他人は家族なのですが、家族と呼べる間柄にあるからといっても、ぼくが妻や子どもたちの何もかもが理解できるわけでもありませんし、思考を読み取れるわけでもありません

ハッキリ言ってしまえば、何もわからないのです。

趣味や嗜好などは、共にする時間が長くなればなるほどに理解と共有ができるようになってきますから、それとなくわかるようにはなっていくでしょうし、相手がどう考えるのか…と傾向を捉えることにもつながるともいえます。

だからと言って、何もかもが思う通りに運べるのかといえば、そんなことはないでしょうし、親が「自分の思う通りに」と考え、子どもの行動を縛る態度を取ってしまうのは、先に触れた「他人の幸福を願う態度」だとはいえません。

子どもだからといって、自分の意思を持たないロボットでもなければ、中世の奴隷でもないため、自分の意思や思考を持っています。まだ小さい内は、意思決定などで援助が必要かもしれませんし、身長や力が足りないために大人の力が必要な時も少なからずあるでしょうが、「何も決められないし、何もできない」わけではありません。

利己的/利他的な他人の幸福を願う態度

先に触れたのは自己中心的で、利己的な考え方の持ち主となってしまっている場合の話です。自らの考える通りに「コト」が運ばれるのが前提で、それ以外の状況や環境になった途端に不平や不満を口にし、態度が悪くなる人のことを書きました。

「あなたのためを思って」などと、他人の幸福を願っているような態度や言動をするものの、本質的には利己的な思考からくる言動や行動であるため、実は他人の幸福を願っているわけではなく、自分の希望や願望を叶えら得ることを期待している態度を取っているのだといえます。

他人の幸福を願える人は態度や行動、それと言動が支援的で援助的です。「与えること」を繰り返せる人だといえます。そうすることが自身の満足につながるので、特に見返りを求めた上で取り組むわけではありません。

そうする態度や行動が「自身の幸福度の上がる条件」となっているだけなので、自然と「与える側」になってしまいます

上で書いた利己的な人は、打算的であり、利他的な振る舞いをしたとしても、無意識のうちに「見返り」を求めてしまいますし、見返りが来なかった、もしくは望むものでなかった場合に、やはり不平や不満を漏らすのです。

自己満足の範疇に何を含めるのか

利他的な人が、全て幸福なのかといえば、そうとは限らないかもしれません。ただ、先に触れた記事の中で検証されている「他人の幸福を願うことによって不安が軽減し、精神状態が良くなる」傾向にはありそうです。

ぼくはこの1、2年の中で「自己満足」をできる限り高められるようにしてきました。ただ、それが「仕事」と「仕事以外」との間に大きな溝があり、そのことが結果的に自分の首を絞める形になったと理解しています。

自己満足を高めるためには、自分が「何をしたら満足できそうなのか」を知る必要がありますし、何よりも、いろいろと試してみる必要があります。

上で触れているように、利他的な態度を自然と撮れる人は、それ自体が「自己満足」に直結するため、わざとらしくならず、自然な行為・行動として発現してくるのですが、生まれてからそうだったのかは正直、わかりません。

ただ、いろいろと人生を生きる中で試してきたところ、「自分が満足できそうなポイント」がわかってきたからこそ、そのような態度や行動・言動をするようになっているのだと思いますし、何より、習慣は才能であり、才能は習慣だといえます。

習慣的に、自身が満足する行為を取り組むことによって、幸福度が上がりやすいのだともいえます。

自己満足の範疇に何をどこまで含めるのか、が重要なのですが、何をしたら自己満足できるのかを知る必要があるため、それには時間や、場合によってはお金も必要かもしれません。

家族と共に生活をしている人たちは、少なくとも「不幸になれ」と思う人は少数派でしょうが、自然と幸福になることを期待し、願望として抱いているのではないでしょうか。

期待や願望を抱いている上に、それをもっと高めるために必要なのは「自己満足」だろう、とぼくは考えています。むしろ、それを高めていく他にないようにすら感じているのです。

自分が何をしたら、どうなったら家族が喜んでくれるのか。考えてみる価値はあるように思います。

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