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可視化の時代

ようこそ、お越しくださいました。

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

非常に不名誉なことだろうが、とある都道府県のとある高校で起こった成人男性による生徒への暴行事件によって、瞬く間に学校の名前は全国区となり、部活動は実績よりも知名度が高くなる事態に陥っている。

別にぼくはどちらの立場でもない。被害者でもなければ加害者でもないのだが、被害者側の保護者にはなりうる可能性があることと、過去に学校という良くも悪くも閉鎖的な環境に属し就労していたことがあることから、ちょっと思うところがあるので書くことにする。

本意として、件の学校をこき下ろしたり蔑んだりする意図はまったくないことを記載して本題に入ろうと思う。

▶︎ 可視化が前提にならざるを得ない

ことの顛末は各種報道を目にして貰えばいいと思いながらも、他にも該当部内で起こっていた事柄が明らかになってきてしまっている現状を鑑みても、あらゆることは可視化されても問題のない事柄であることが条件となってきつつある。

学校内で起こっていたとしても、第三者の目があれば明るみになる可能性があるし、当事者間の関係によっては明るみになる可能性が存分にある。
その場所は学校だろうが自宅だろうが会社だろうが関係ない。

個人が高性能なIT端末を保持していることが確定している以上、録画や録音をできる状態であることと、それをネットの海に放り投げることが"いつでも"できる状態にあることが現代における標準仕様だ。

つまり、何かしらの被害に遭っているのであれば当該音声を録音をすることも可能だし、映像や静止画を撮影することも可能である以上、誰かに向けて放つ言葉や態度は可視化されたとしても問題がないものでなければ社会的な地位を失う可能性が存分にある。

インターネットが普及して久しいが、あらゆることがオープンにできる状態になってしまっているからこそ、オープンにできないことは「怪しいもの」や「卑しいことがある」と見られても仕方がない時代になっているのだ。

▷ 可視化が差別化要因になり得る

可視化は、特に子どもといった未来の担い手である若い人格保有者たちを扱うサービスにおいては必然的に付帯しなければならないものになっていくだろう。

たとえば、家事育児を代行する事業を営んでいたとしよう。

家庭に招き入れる他人が子どもに危害を加えるかどうかをサービス提供者側としては事前に「審査」することは必須事項なのだろうが、現場でことが起こらないことを保証するものではない。

契約で縛る等の制約や抑止力は存在するかもしれないが、可視化することほどの抑止力はないだろう。

自宅で死角が生まれないようなカメラの設置や子どもと接する保育担当者の胸にカメラを設置するなどし、徹底的に「何が起こったのか」「どんな声がけをしているのか」を可視化し、記録として残すのである。

むしろ、これをするだけでも他の類似サービスとの差別化を図れるだけでなく、信頼性を担保できることになるため、今後は高額な保育代行サービスとして高所得者向けに提供されるのではないかとすら思える。

それだけ可視化されることやオープンにされることが前提認識となってきているのだ。

▷ 死角や閉じられた空間をつくるべきではない

今後、それは会社であろうが学校であろうが自宅であろうが関係なく、人の目に触れづらい環境や状況をつくらないことが標準化されていくはずだ。

その世界線は、現状の密室や閉じられた空間を生きてきた立場からすると非常に生きた心地のしない、堅苦しい思いを抱いてしまうような状況なのかもしれないが、それによって社会的な地位や立場を失ってしまうリスクを抱えるのだとしたら、従う選択を取らざるを得ない。

まるで可視化に隷属するような時代だといえるものの、それが全てにおいて悪い世界だとは思わない。

可視化とは物理的な意味におけるものだけでなく、数値として残せるものでも残せば可視化となる。

ブラック企業でサービス残業が常態化しているのであれば残業時間等を記録することが必要だが、ブラック企業はそれを記録として残さないようにしているからこそ真っ黒なのだ。

ところが、いま、我々の手元には高性能端末があるのだからカメラを使って画像を撮影するだけで時計などと合わせて時間だけでなく業務内容を同時に撮影すれば歴とした証拠となる。

自宅内のような他者の介入が難しい場合であっても、自宅内にカメラを忍ばせるだけで児童虐待やDVなどの犯罪行為を防ぐ、もしくは記録として残すことが可能となる可能性が高くなる。(もちろん、一定のハードルがあることは承知の上だ。)

自分ひとりで行うのであれば可視化の必要などないのだが、自分以外の人格と時間を共有することになるのであれば、自衛的な意味でも可視化しなければならない時代になっていることを認識した方がいいだろう。

▷ 不可視化や閉じられた空間はひとりで堪能するものに

ぼくみたいな引きこもり気質の下手したら交友関係をオンラインで済ませてしまってもいいと思えるほどにコミュ障な立場からすると、他人と接するからこそ可視化が必要なのだから他人と接する機会を減らせばいいじゃないかとすら思ってしまう。

根暗な印象を与えるだろうが、それも立派な自衛手段だ。

とはいえ、死角や閉じられた空間は時として平穏を与えてくれるものだ。
死角や閉じられた空間に入り浸ることは他人の不可侵状態を得ることでもある。その空間に入るからこそ精神衛生が保たれる場合もある事は重々に承知している。

強いていうならば、今後、そういった死角や閉じられた空間は個人の嗜好に追いやられ、ある種の贅沢品となっていくのだろう。

あらゆることが可視化されていくことは、そうではないことに希少価値が生じることにもなる。

そう考えると、すでに”ひとり時間”などといって他人の目に触れない状態をつくりだしては自己満足に浸れる時間を得る事は贅沢なものであると認識しているではないか。

おそらく、それがさらに強い印象を与えることになるのだろうし、そうすることが誰かにとっての幸福になっていくのだろうとも思う。下手したら高額な金銭を支払って死角や閉鎖空間を堪能するような時代に、すでになっているのだ。

それがいいかどうかの判断はつかないが、子どもたちを守ることを前提にするならば必要な措置だと考えざるを得ないのかもしれない。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

教育は人を変えられるか、という問いから学校での体罰問題をひも解く
外部要因によって他人を変えられると思っていることほど傲慢なことはない、とぼくは考えている。少なくとも自分が子どもと生活をするようになってから「育てる」だなんてことを偉そうにいえるものではないことを自覚している。成長は当人が果たすものであり他人は要因でしかない。

カルチャーは暴力である、と考えてみる。
なるほど、と膝を打った。たしかに集団的多数派となって良きものであると認識する事は暴力的であり、下手したら少数派を蔑むような姿勢を取ることになるかもしれない。そう考えると、あらゆることにおいて清廉潔白を求められるようになってきた現代はますます白くなっていくのか。

私は現在の学校の教育機構は一回なくなったほうがいいと思う話
ぼくも同様の認識を持っており、すでに現代の子供たちに向けた制度としては破綻していると思っている。旧来的な制度ややり方を押し通すような態度を継続しており、そもそも150年前から何も変わっていないことには驚愕せざるを得ない。だが、変わらないだろう。それをいいと思っている人たちが制度を敷く側なのだから。

▷ 紹介したい関連書籍

銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎 文庫 (上)(下)巻セット
長いため途中で挫折をしたくなるような本かもしれないが、たびたび読み返すと趣深い本であると実感する。ぜひ多くの人に読んでもらいたいが、読むだけの時間を確保することが困難であるといわれると、どうにかしてほしいという他にない。


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