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らしく、本当にらしく

らしく生きるのって、大変とはいわないけど、簡単ではありませんです。

いつだって、「大人」の仮面をかぶった人たちが、「もういい歳なんだから」とか「もういい加減に...」なんて物言いで諌めてきたりします。

そんな風にいわれたのは、いつが最初だったかなぁ...なんて思い返すと、20代の前半にはいわれていたことを思い出しました。

これはもう空気や雰囲気といった類のものなのだと気付いてはいたものの、実際に自分が何か行動をしていたのかといえば、そこから10年も経過してからのことになるので、なんだかなぁ...なんて思います。

ただ、そんなことを別にどうでもいいんじゃない?と思えるようなことというのは起こるもので、やっぱり彼らとの生活がぼくにとってのそれです。

先日、次男と三男を連れて、少し大きな規模の公園に行ってきました。

特別に何かをしに行った訳でもないのですが、あまりにも天気が良かったのと、妻の回復時間を設けるために企画したのですが、長男は乗り気にならなかったため、二人を連れて行くことに。

次男は「どこか」へ「行こうか」と誘うと、割とすぐに「うん!」と気持ちの良いい返事をしてくれた上で準備を始めてくれますし、三男は特に有無を言わさずに連行されているので、少しごめんね、と行ったところ。

公園へ到着するまでにも、次男はいろいろと話しかけてきてくれ、「〇〇に行ったの、楽しかったよね」とか「〇〇で△△ができたの、うれしかったよね」なんていう風に、こちらへ思い出を話してくれます。

「おなか(お腹)すいた!」とはいえず、「おかなすいた!」といってしまったり、「しゅ」と「ちゅ」がゴチャ混ぜになったりしていて、まだ言葉がたどたどしい彼ですが、懸命に自分の言葉をこちらにぶつけてくる。

そのたどたどしさも、後々には消えてしまうんだろうなぁ、と寂しい気持ちを抱きつつも、そのたどたどしさが消えた時に、彼とどんな話ができるようになるのかがすごく楽しみにもなったり。

車で走りながら、いろいろと話したいことを話してくれるのは年齢的なことなのかもしれないけど、2歳になるまで全く話せなかったのに、2歳を超えた瞬間から急に言葉が溢れ出してから止まらない次男。

明らかに語彙集が多くなっていることと、感情を乗せた「ことば」を練ることができるようになってきたので、彼らしい表現をするようになってきているんだということに気づきました。

「あ、これが"らしさ"だよな」なんて、少しカッコつけた言い方ですが、そう思わせてくれるのは、彼と生活しているからこそ、気づけたこと。

じゃー僕がここで、「そんな表現をするべきじゃないよ」とか「そういう時は〇〇だよって言わなきゃダメだよ」なんて、矯正することはしたくないわけです。

同じ日本語をつかう人たちでも、つかう言葉の種類によって、全く異なるように聞こえることがいくらでもある。声質もそうかもしれないし、声量もそう。似てることはあるかもしれないけど、同じことがない。

誰かが何かをやろうとすることに対して、その人"らしい"って「わかる」のは、限られた人に与えられた特権でもあるのです。

大半の人、というか世界中の中で、その"らしさ"を噛みしめることができる人なんて半分もいません。三分の一もいません。

それは、関係が近しい人たちや、一方的かもしれないけど、知ることができている人たちだけが抱くことのできる偶像ともいえるもので、それが"らしさ"だと思ってます。

それを思える、感じることができるのは、相手にとってもそうだし、自分から見た相手も特別な存在なのかもしれませんし、むしろ、そうなのだともいえます。

そのらしさをドンドンと広げていけるような、接し方や環境を用意すること、状況をつくることなんかができたら、お互いにとって、すごく素敵な関係になっているのかもしれません。


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