クリエイティブにとって"企画"は大事だけど"全てではない"
シーエスレポーターズに所属するようになってから、明らかに意匠的な意味でのデザインもそうだけれど、コーディングやシステムなどのいわゆる言語で設計という意味でのデザインにも触れるようになりましたし、現状の役割としても組織の意思疎通に関する部分を担う意味では、ぼく自身がデザインをする立場にいるといえます。
ぼく自身は大層なこともできませんし、それらに関して詳しいだとか造詣が深いなんてことはないのだけど、専門的に仕事として取り組んでいる人たちに囲まれて(現状はテレワーク中だから"実質的"に囲まれて)いる中で、あることに気づいたというか、考えることがあったので、書いていこうと思います。
企画が大事、は嘘じゃないけど全てじゃない
まず、何をするにしても企画を立てた上で、ロードマップを引いて、どんなスキルを持っている誰が必要なのかを洗い出した上でタスクを起こし、期日設定を行った上でプロジェクトとして走り出す、なんてのは当然といえるほどに当然の話で、別に改めてぼくが書くまでもなく、仕事を取り組んできている方々であれば、自然と認知してしまうレベルでしょうし、それを言葉として書くまでもない内容だと言われてしまうかもしれません。
ここで言いたいのは、その走り出しの段階である企画設定がすべてではない、ということです。
企画は大事です。上記しているように、走り出すためのきっかけであり、何かしらの課題を解決するための手段として立てるのが企画なので、その意義自体が変わるとか価値が低くくなるなんてことはあり得ません。そもそも企画を立てている時点で、困ったことだったり、どうにかしたいと思える事案が生じていることの証左ですから、望みや希望みたいなものです。
ただ、本当にすばらしいアイデアがあれば、何でもかんでも解決できるのかといえば、決してそんなことはないでしょう。当初の企画から、最終的な形はまったく異なるものだった、なんてこともあったりするわけです。今回は、その善し悪しについて述べるつもりはありませんし、何度も繰り返しますが、適切な企画=適切な課題設定だといえますので「企画は大事だ」という点において揺らぎはありません。
コミュニティでの意思交換だって重要だ
初期設定の段階で解像度を高く設定できているかどうかが重要なことは言うまでもなく、重要ではありますが、それだけではクリエイティブでの到達できないだろう、という趣旨で書き連ねてきたわけですが、何故なのかといえば、結局、ぼくたちが生きる世界はコミュニティが前提だといえるからです。
本を書くにしろ、絵を描くにしろ、設計をするにしろ、いわゆる制作と呼ばれる行為や行為の結果として生み出されるものは、誰かの意向や生活に対して向き合っていなければなりません。もうちょっと強い言葉で表現すれば、人に向き合えなければ存在する価値がないとすらいえます。
それを前提にすると、制作者側に「人」に対して興味や関心があるなんてことは前提も前提であり、自分がやりたいと思ったこと、表現したいと思えることだけを表出させるだけであれば、それは誰にも必要とされないものを生み出してしまう可能性が高くなるのです。
では、企画だけではなく、クリエイティブは何を前提にして、誰かに刺さる・必要とされると言った意味での練度や精度を高めていくことができるのかといえば、意思交換や意思疎通を図ることにあるでしょう。
ちょっとした会話に対して反応できるかどうか。その反応をした内容が陳腐だとか、時代遅れだとか関係なく、きちんと反応ができること。その反応を毛嫌いせず、きちんと受け止められること。
些細なことかもしれませんが、その些細なことすらできない人のもとに誰が課題を預けようと思えるのか。自分の抱えている、もしくは自分を含めたチームやグループでの課題に対して(広義な意味での)デザインをしてもらおうとするのかどうか。
企画もコミュニケーションも"人"次第
『うしおととら』や『からくりサーカス』の作者である藤田和日郎さんが新人漫画家がアシスタントに来た設定の中で、漫画とはどう作っていくものなのかを懇々と説いていく内容を書いた『読者ハ読ムナ』のなかで、新人漫画家である読者に対し、冒頭でこんな風に語ります。
コミュニケーションをちゃんととれるやつが漫画家になれる。
その理由に漫画をつくるのが人であることに言及しつつ、
人間と人間、編集者と作家で漫画はできている
と述べているのですが、これはぜひ、制作物というかクリエイティブな世界に片足を突っ込んでいるような人であれば確実に読んでもらいたいと思う本です。
ぼくは現在、ITやデジタルといった領域でクリエイティブな人たちが周りにいるのもそうだけど、それはデジタルだとかなんだとか関係なく、
人と話ができるかどうか、
人の意見を受け入れられるかどうか、
そもそも他人やその意見を尊重できるかどうか、
なんてところに帰結するものだと考えてます。
だから、始まりの企画がバシッと決まっていることはいうまでもなく大事なのですが、その過程、つまりはクリエイティブな過程にこそ、その企画の中身が詰まってくるのであって、その中身を有意義なものだったり、意義深いものにできるかどうかは人として尊重されるかどうかにかかっているでしょう。
応援される取り組みだったり、応援してくれる人を支援できるような姿勢や態度だったり、意見をきちんと受け取りつつ、相手の意向に対して自分の意見を投げかけては質問できるか。
人格の否定ではなく、意見と意見をぶつけ合えるディスカッションがあるかどうか。その前提になるのは、人との折衝を嫌がらずに向き合える人格を有しているかどうか、だと思っています。相手を否定することを前提にするのではなく、受け入れるのかどうかといった根幹的な態度次第によって、(広義な意味でのデザインを含めた)クリエイティブの質が左右されるんだろうな、と。
それでは、また。
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