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一市民として最近の高校野球に思うこと

ぼくは新潟県民であり、新潟市民だ。スポーツがスキで、スポーツを軸にした活動から、新潟県でも新潟市でもなく、新潟をエリアとして捉えたうえで、明るい前向きな雰囲気の溢れる空気をつくりたいと思ってる。

それを、許容度の高いエリアにする、といいながら、2018年9月から半年で4回の活動をしてきており、まだこれからも活動を継続していく。

活動名は #スポみら (#スポーツの未来に僕たちができること)だ。第四弾の冒頭で長いから略します、と略すことにした。

ただ、スポーツだけではできることに限りがあるし、新潟だけでなく、日本もそうだし、世界もそうだが、世の中はスポーツだけで出来上がっているわけではない。

だからこそ、いろんな軸を持つ人とぼくはつながりたいし、つながった上でコトを成し続けたい。体験的な価値を提供し、実際にコトやモノが仕上がっていく過程を共有できるプラットフォームになりたい。

地方創生を誰がやるのかといえば、政府や行政ではなく、その中に住む「人」がやる他にないのは言うまでもない。手をこまねいているだけではできないのだ。

そして、地方都市へ住むために、仕事を用意することも、食事が美味しいことも、豊かな自然も、どこにいったってある。だから、「人」が重要で大切で必須。

スポーツ「軸」に絡ませて、いろいろとコトやモノとして形にしてみたいと思う方はぜひ、ご一緒してください。そして、ぼくにいろいろとご教示くださいませ!


さ、本題。

2018年12月に、新潟県高野連(高校野球連盟)が、全国に先駆け、2019年の春の大会限定ながらも、投手の投球数を1試合につき1人100球までにする「球数制限」を導入するニュースが稲妻のごとく走り抜けたのはご存知のかたも多いかと思う。

このニュースの凄さは、甲子園という大会を運営しているのは、日本高野連というアマチュアの野球組織を運営する団体だが、春と夏に主催新聞社を異にし、今年で春は91回目、夏は101回目の大会となる。

年に1回の開催であることを考えると、単純計算で春は90年、夏は100年以上継続して来たことになり、人生が100年だといわれはじめた中で、生まれた子どもが100年後に亡くなるまで続けていたのだと考えると、素直にそれを継続してきた大人たちの姿勢は素晴らしいものだと思う。

しかし、その歴史の中で、「球数を制限する」という規則が設けられたことは一度もない。

野球に詳しくない方でも、特に夏の甲子園で「エース〇〇が〇〇○球!」といった見出しの新聞を目にしたり、同様の表現をWebニュースやTVニュースで目にしたこともあることだろう。

ぼくは過去にスポーツトレーナーとして高校野球チームと契約を結んでいた時期があったが、その中で選手たちが訴えてくる肩や肘の痛みは、野球をするのであれば、ほぼ確実に付き合っていかざるを得ない傷害であり、障害であった。

投手だけでなく、キャッチャーをはじめ、他のポジションの選手たちにも起こるものであるため、野球という競技の特性として、硬式のボールを利用することが大きな要因だろうが、野球における特徴的な傷害といえる。

ただ、投手の負担が大きくなるのは言うまでもなく、予選から決勝まで勝ち上がるチームで、なおかつエースが一人で投げ続けることしかない場合は、上記したように何百球を投げることが必要十分条件化する。

そこで肩や肘を痛めてしまうことによって、野球が取り組めない状況になることはもちろん、最悪の場合、普段の生活にも支障をきたすような状況を生み出してしまいかねない。

根本的な問題として言えば、レギュレーションだ。

トーナメント制のシステムであるため、指導者も選手も勝利を目指さなければならない状況のうえで競技を取り組むことが必然となる。

どうしても「勝ち」を得るために、その確率を高めるための方策として、勝てる可能性が高いエースピッチャーを連投させ、自チームが次の試合に勝ち進むための犠牲としてエースを捧げる。

これは、指導者や選手が悪いのではない。誰も責めることなどできない。そういうレギュレーションを組んでいる事によって生じることなのだから、その中でやるしかない選手や指導者を誰が責められようか。

そんなところに新潟県高野連が全国で初となる球数制限を春の大会限定ではあるものの、実施することを声高らかに宣言したのだが、その総本山である日本高野連が再考を促す「待った」をかけた。

それに対して新潟県高野連は3月末までに回答をするとしている。

再考を促した側の、日本高野連 竹中雅彦事務局長は、理事会での決定をこう説明した。

「部員20人以下の加盟校が全体の4分の1を占める現状では、部員が少ないチームが不利になる。球数制限に踏み込むのは慎重であるべきだ。ただ、高校野球の発展には避けて通れない課題であり、新潟県高野連が一石を投じ、我々にエールを送っていただいたと考えている」

エールかどうかはさておきながらも、新潟県高野連から発した動きが、これまで議論だけは十分にされてきた球数制限を皮切りに、改革へ待ったなしの状況を生み出したことは間違いない。

部員が少ないチームが不利になる、という部分も、そもそも野球という枠だけで捉えるから難しくなるのではないか。

スポーツ全般で見た際に、学校単位での移籍が禁じられてはいないものの、高い障壁になっていることは間違いないだろう。

言うは易し、行うは難しだというのは理解できるが、試合に出れる人数が限られるスポーツの中で、応援席に立ちたいと思う選手はいないはずで、可能ならばグラウンドやアリーナ、つまり選手として試合を闘いたいハズだ。

時間がかかるとは思うが、日本のスポーツ全体として、試合に出れる選手の総数を増やすような仕組みをつくっていくことが必要なのではないか。

そのレギュレーションづくりが、リーグ戦とトーナメント戦の融合なのか、選手の流動性を高めることなのか、はたまた別の方向か。

その方向性は、スポーツが消費コンテンツとして終わらないような方向に進んで欲しいと思うが、UNIVASの設置など変革に向け、機運が高まって来ていることを考えると期待したくもなる。

何より、競技単独ではなく、総和としてのスポーツを考えた際に、大きな枠組みの中で包括的な仕組みが出来上がっていってもらいたいと真剣に思う。

そして、変革の中では柔和な発想と、その時代に即したやり方、つまり、時代の流れに乗ることが重要だ。

伝統、などという言葉を使うのも気をつけなければならない。そもそも伝統だと思いこんでいること自体を疑わなければならない、といった方がいいかも知れない。

得てして、それは既得権の保持に対して意固地になっているだけなのかも知れないからだ。

野球憲章の中にある、“学生野球における基本原理の中にこんな文言がある。

④ 学生野球は、学生野球、野球部または部員を政治的あるいは商業的に利用しない。

高知商業野球部が、同行ダンス部の有料イベントにユニフォーム姿で参加したことに対し、日本高野連が上記、野球憲章に抵触するのではないか、と声明を出すことがあった。

それをJリーグとBリーグという二つのプロリーグを立ち上げた川淵三郎氏が批判するといったことが起こり、少し異様な空気となってきたこともある。

ぼくとしては、春や夏の甲子園大会で入場料を取っているのは必要経費として利用される、という名目があるにせよ、CMまで流されるのは商業利用ではないのか?という特大のブーメランになりそうだなぁ…とは思うのと同時に、そろそろ高校野球だけでやっていくこと自体に限界を感じているのは、選手をはじめとした現場の人たちであり、その結果があらゆる行動となって出ているのではないだろうか。

地方に住む無名のぼくだが、スポーツが矮小な世界に閉じこもろうとするのは、流石に看過できない。

高校野球というのは、日本の学生スポーツの中でもとりわけ影響力という点で見ると、他のスポーツは正直いって比較にならない。

他の学生スポーツが高校野球のことをどれだけ羨ましく思っているのか、当人たちに聞けばスラスラ出てくる。

そう考えると、高校野球は日本の学生スポーツの中で、先陣を切って革新を遂げていってもらいたいと思うし、それに期待したい。

ぜひ、前向きな改革へ邁進してもらうことを、一市民として期待する。

現状では、ぼくは自分の息子に野球をやってほしいとは思えない。

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