見出し画像

食事

食事をすること自体に意義はないと思う

僕は明日の食事について考えることはない。ましてや、今日の夕飯が何なのか、というところも特に考えていない。考えている人はいるのかもしれないけど、特に考えてない。

けど、それを作る人がどんな状態にあるのかを考えることはしていて、僕と生活をともにする妻だったり、一緒に食事をすることになるであろう子どもたちのことは考えている。

これ、何が言いたいのかというと、食事をすること自体にそれほど大きな価値はなくて、その時間を共有することに意義があるんだということを僕は言いたい。

もともとスポーツトレーナーみたいなことをやって対価を得てきた人間として、いわゆる選手だとかクライアントに対してそれらしい食事に対するアドバイスをしてきたし、栄養士の人にも協力してもらって指導資料を作ってもらったこともある。

実際、オリンピアンと呼ばれるオリンピックを目指すような選手たちは1分1秒を競う中で自らのカラダを鍛え上げなければならない状況の中で、それを構成する食事をすごく大切にするのは分かる。

仕事として取り組む、もしくはそこに対して全身全霊をもって当たることが必要なのであれば、一定以上の知識を身につけながら取り組み、その検証を繰り返しながら何が良くて何があっていそうなのかという取捨選択をすることが大切なのでしょう。

それを孤独な状態で行うのか、それとも信用信頼関係にある人たちと行うのかによって結果も変わってくるんじゃないか。

確たるデータがあるわけではないし、あえて調べようとも思わないけど、ある程度食べずとも、人間が死ぬわけではないということを踏まえてみて、やっぱり食事をすることだけに意義があるのではないなぁ、なんて思う。

僕は子どもの頃、実家が自営業でそば屋を営んでいたこともあり、食事を一人ですることが多かった。

いま、あのお店の食事を自分の子どもを連れて食べてみて、すごく美味しいと感じるし、30年以上も続くことができているのはきちんとそれが評価されているからだろう。

20年以上前ではあるけれど、おそらく当時も美味しかったのだと思う。

けど、当時を振り返ってみると美味しかった記憶はなく、明らかにバイアスというか曇りがかっているのかもしれないし、記憶の断片でしかないのだけれど、美味しくなかった記憶が強く残っている。

それは僕が孤独な状態で食べていたからなのかもしれない、といまになって思う。だからどうだっていうこともないのだけれど、食事はコミュニケーションツールの一つなんだと思う。

SNSでの会話と大差ない、一つの手段であり、方法なんだと。

物理的な距離の制約があるし、時間の制約を合わせなければならないから、少し大変だけれど、相手との信用信頼関係を構築しようと考えた際に取り組むものの一つが食事なんだろうな。

そんなことを考えていると、コミュニケーションをとりたい人は山ほどいる。実際に顔を合わせた状態で話せることというのは時間もそうだし、内容も限られてしまうけれど、それでも会って話をし、盛り上がるところを知りたい。

「あ、この人はこんな話をすると嬉しそうに話してくれるんだな」

「この話はすると決して楽しくはないんだろうな」

「なんて怒りながら話をするんだ、この人は」

なんて、そんなことを読み取りながら、感じ取りながら時間を共有することというのはすごく貴重な時間なんだろうし、贅沢な時間なんだろうな。

そう考えると、早く食事をしたくなってきた。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!