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子どもの写真をSNSに載せることに対して

自己満足であるということを自覚している

mixiから始まった僕のSNS生活も、mixi時代から数えるとすでに10年を超える。mixiはもちろん、twitterやFacebook、Instagramを中心に、Pintarestなんかも楽しく見ているし、tumblrなんかもアカウントがあったり...

色々とでてくるものに対して手を出し、何が良くて何が自分に合ってないのかを考えながら、生活の中に取り組むSNSを選択しているつもり。

その中で、自分の写真を載せることは決して多くはない。それはそうだだろう。新潟在住の30代男性の写真を見て誰が喜ぶというのか。

中には僕の熱狂的なファンらしい人が存在して、楽しみにしてくださっていることもあるのかもしれないけど、残念ながら僕にそれを直接的に伝えてきてくださる方は皆無のため、僕の画像のみを載せることは実行に至らない。

そして、僕と生活を共にする子どもたちの写真を載せることは、僕からしたら備忘録であり、一種のアルバムとして利用している。僕のアカウントは基本的に「公開」にしてあるので、公開アルバム的な位置付けだ。

「親が育てるのではなく、社会が育てる」だなんてフレーズを耳にするようになって何年か、というところだけど、僕は夫婦だけで子どもたちの成長を助けるような行動をとる、というよりもそれを見た同じような境遇の人たちから共感してもらい、もし、困るようなことがあれば助け合えるような状態にしたいと考えている。

詭弁かもしれないけど、確かにそう考えていて、結構な期間が空いて会っていなかった友人と会った時には「久しぶり」や「初めまして」ということよりも「よく見てるよ」ということを言われるのだけど、我が家の子どもたちと接する際にも同じような態度になってもらいたいと思っている。

子供からしたらいい迷惑なのかもしれない。

自分の知らない人が自分のことを知っている、ということに違和感があるのかもしれない。けど、よくよく考えてみると、別に僕が子どもの時にだって、同じようなことはあった。

両親とともにどちらかの実家に立ち寄る機会があった際に、両親がお世話になっていたであろう方のお宅に入り、お茶でもすすろうものなら「久しぶりだな」などと声をかけられる。

こっちは全く知らないにも関わらず、自分が小さかった頃の記憶を振り返られ、あたかも「お前も覚えてるだろ」的な話をされるが、まだ2歳当時ぐらいの記憶を掘り返せ、と言われるのはどう考えても無理筋な話だ。

「自分は知らないが、相手の大人は自分のことを知っている」というのを経験したことにより、それとなく対応することを身につけていったのは覚えているが、僕と生活を共にする彼らもきっと同じような気持ちになっていくのかもしれない。

何より、子どもからしてみた場合に「自分の写真が勝手に使われている」という点は養育者という立場を利用した僕の完全な自己満足だ。その点は常に自覚している。

子どもに対して「謝罪」と「了承」が必要

親の自己満足に付き合わされることは決して気持ちが良いものではないだろうし、その気持ちはよくわかる。

そして、そんな親のエゴとして、人生のある瞬間を切り取られた画像を「親の社会性を担保するために利用されている」ということを理解した時に、どんな気持ちになるのかを想像しないでもない。

具体的な数値はまだわからないのだけれど、長男には端々で伝えていきながら「謝罪と了承」を得るようにしていこうと思うし、子どもと生活する上では当然の態度なのだとも思う。

理由としては簡単で、肖像権という点においてもそうなのですが、彼らにも人格があり、そこに確実に存在する意志をないがしろにした状態で画像をあらゆるところに公開する、というのは友人関係では絶対にありえない行為だから。

友人と撮った写真を、例えばですが、勝手に新聞などのメディアに掲載した場合(もちろん新聞社としても確認をするでしょうが例として)、その友人は怒るでしょう。もし、自分がその立場だった場合も「一言いってほしい」と伝えるはず。

一緒に生活をする子どもとはいえ、僕の所有物ではなく、あくまでも人格を有した人間であるということを認識していれば「好き勝手な扱いをして良い存在」とはならない。

だから、長男がそろそろ5歳となり、それなりに認識をしているということもあるが、それなりに伝えながら掲載をしていこうと考えている。

瞬間を切り取って残せる

ここ最近、僕は彼らの様子を1日に1枚、切り取るようにしている。

子どもの成長が早いなんてのは共に生活を始めてすでに5年が経過するので強く認識しているし、彼らの中での1年、1ヶ月、1日というのは本当に恐竜的な進化を遂げていく過程なんだというのを実感している。

その瞬間をすべて残す、というのは無理だけれど、その瞬間ずつ残すことはできるし、それをすることによって後日振り返れるという意味でもすごく良い時代になっている。

そして、その様子を見ている彼らもすごく嬉しそうにしてくれるし、長男に至ってはiPod touchを渡せば立派なカメラマンになって、自分の見た景色や情景を切り取ることができるし、その切り取った画像を見てみると僕たちが驚くようなものを撮ってくれたりもする。

何事でもそうだが、全く触れたことがないものを避けたところで根本的には解決しないのと一緒で、日々向き合いながらどう扱っていけば良いのかを考えていくことが大切なのだと思う。

彼らの存在は日増しに強く、大きくなっていく。彼らの不利益になることは、親の自己満足だとしても、したいとは思わないし、避けたいとも思う。

彼らの瞬間を切り取ることができるのは、彼らの養育者として生活を共にするものの権利だとは思いながらも、責任もあると思っていて、瞬間を切り取りながら、後日、どんな気持ちで触れていたのか、どんなふうに考えていたのか、といったことを彼らに共有したいと思う。

大切な存在だということを表現する方法の一つとして、投稿しているのだということを伝えていく。

そんな風に向き合っていこうと強く考えている。


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