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「理屈っぽいけど考えが浅い人」っていわれたくない

はじめに

はじめましての方から頻繁に起こしいただく方まで、ようこそ。

どうも、ゑんどう @ryosuke_endo です。

ダイヤモンド・オンラインで、ある書籍紹介をするWeb記事が出ていた。その記事タイトルが【「理屈っぽいけど実は考えが浅い人」がよく使う、2つの口ぐせ】だった。

これをみて即座に「いわれたくねー!」と震えたものである。

なぜ震えたのか。

そりゃ、他人から「浅はか」とか「詭弁を弄する」などと評価されてしまうことなどはどうでもいい。他者からの評価なんてものは移ろうものだ。

そんな言われようを受け入れざるを得ない状況を生み出している自分自身に向けて背筋が凍るぐらい恐怖感を覚える。

そんな心情を吐露するつもりで書いていこう。

「◯◯的」で逃げてみる

上記した記事内では「詭弁を弄する人物(理屈っぽいけど浅はかな人物」が述べる口癖として「本物」と「本質」があると紹介されている。

まずい。「本物」は使わないが、「本質」は言っている気がする…。

議論があっちこっち行きだした際には、「やりたいことの本質は…」とか「ここで目指したい本質って…」みたいな物言いをカッコつけながら言ってる気がする。

いや、ちょっと待て……よくよく思い返してみると、「本質」と単独で使っているケースは多くなさそうだ。よしよし、少し安心してきた。

よく思い返してみたところ、ぼくは「本質的に」といった語句を好んで使っていることを思い出した。

ことの本質ではないのだけど、本質っぽい、本質に近しい、本質を考えると必然的にそうなる、そんな意味合いで「的」を使っているのだ。

あるレギュラーソリュブルコーヒーのテレビCMで「上質を知る人の…」なんてコピーがあったが、上質を知る人はレギュラーソリュブルコーヒーを飲むのだろうか。
こんな風に考えることが本質的だ。んー、なんだか違う気もするが、これで納得させる他にないため、継続してこう。

おそらく「上質を知る人の…」としているのは上質を知る人はコーヒーを飲む前後までを含めて嗜むことが出来る人であるから、お湯を注ぐ時間から片付けるところまでを一貫して楽しめる製品でなければならないことを指しているのだろう。

お湯を注いだ瞬間から香りが沸き立ってきては、匂いをかいでは今からゆったりと前後に揺れる構造の木製イスに腰掛けて優雅な山の景色かなんかを見ながら、その景色に感嘆とする「はぁ〜」とか「ん〜」みたいな息を漏らしたあとに火傷しないように飲んだりするのである。

つまり、風味だとか味がどうこうというよりも、そんな優雅で雄大な余剰時間を楽しむことが出来る人に付き添えるための製品が、その製品なのだと印象づけるための文句が「上質を知る人の…」だ。

こうやって考えることが本質的なものの考えだと思って書いてきたのだけど、こういうところが理屈っぽくて浅はかな考えをしていると印象づけることに一役買っていることを、ここまで書いてきて気づいた。

「バカっぽく」振る舞うべきか

本質がどうだこうだと話すことを、それほどまでに他人が求めているのかどうかを察することができなければ「理屈っぽいけど浅はかな思考をするオジさん」から脱却することはできない。

悔しいけれど、すでに定着してしまったイメージを払拭するためには相応の時間と労力が必要なのである。

もう、ここまで来てしまったら振り切る他にない。

ぼくは有能側の人間では内痔核ぐらいはある。知性を感じさせるような言動や行動をできない無能側の人間なので、いっそのことバカっぽく振る舞う方向で振り切ってしまうのは存分にありだ。

ここで勘違いされてほしくないのだが、バカっぽくとはバカなのではない。本質と本質的のような、ちょっとした違いがある。

本質的が、本質に則した様相や様子を描写する言葉であるように、バカっぽいはバカみたいな様相や様子を描写する言葉なのだ。

繰り返すが、バカっぽいとはバカなのではない。

しかも、ここでいうバカっぽさとは大事な会議の最中に「すいません、お腹すいちゃいました(テヘペロ」みたいな空気を読まない発言をする痛い人になる行動や言動を指すものではない。

会議に参加しているのだとしたら、わからないことや不安に感じられる事柄についてしつこく質問をすることである。

「なんでそんなこともわからないんだ」と冷たい視線を向けられることもあるだろうが、少なくとも何も考えずに時間を過ごすためだけの会議参加者より3倍はマシだろう。

もちろん、何でもかんでも質問するようなことになれば会議の時間自体が伸びてしまう。それは生産性の高い行動ではない。会議など壁打ちなどでもない限りはサクッと終わらせるべきだ。

可能な限り会議の時間を短縮することは意識しながら、でも明らかにしたい事柄や不明点、会議参加者の理解を促すための、いわゆるファシリテーションをするために敢えてバカっぽく質問をすることが大事なのである。

そんなわけで、どうだろう。バカっぽく振る舞うことは推奨されていいのではないか。

おわりに

「…あの人ってさ、理屈っぽいけど浅いよね、考え方がさ。」

こんな風に言われている様子を社内の給湯室などを通りすがった際に聞こえてでも来たことを想像すると、もう夜も眠れなくなりそうである。

本当にバカな人は、そこで自分が揶揄されているであろうことも気づけないだろう。バカは風邪を引かないのではなく、風邪を引いたことにすら気づかないからバカなのである。

しかし、バカっぽく振る舞おうとするぼくは違う。

あくまでもバカっぽさを演じているだけで、本当のバカにはなりたくない。

……いや、こうやって思えている時点で本当のバカにすらなれないことに気づいた。

あぁ、そうか。ぼくは何者かになりたい幻想を未だに捨てきれずにいるのか。だったら、その幻想を捨てずに、バカっぽさを醸し出すちょっと痛々しいオジさんでいることを目指すことにする。

少年の心を忘れてはならないのだ。

ではでは。

ゑんどう

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