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ボクはあなたに「がんばれ」とはいえません

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

以前、「努力は他人に求められない」って話を書きました。努力が報われるなんてことは幻想だからって主張なのですが、今回は似たような言葉で広く一般化している「がんばれ」について。

「がんばれ」は当事者になれない人の言葉

根本的に人は誰にもなれません。誰にもなれないし、誰の代わりになることもできません。役割を代替することはできるでしょうが、当人になることは当然ながらできるわけがありません。

もし、仮にできる人がいたら教えてください。是非、目の前で他人になれる様を見せてもらいたいと思うのです。あ、モノマネが上手ってのは「他人になれる」とは言いませんからね!

他人になれないってことは、詰まるところ自分以外の人が抱く喜怒哀楽の感情はもちろん、物理的な傷や怪我をすることによって起こる痛みなんかも理解することはできません。

心理的・物理的なもののどちらにしても、「人の痛み」は想像はできても根本的な理解をすることなどできるわけがありません。他人のことを理解できると思っているのだとしたら、それは奢りです。

他人の痛みを完全に理解できない以上、「がんばれ」と声をかけることはどんなに純粋な応援する気持ちを抱いていたとしても、無責任な放言となってしまうのではないかな、とボクは考えてしまうのです。

その人の苦しみを取って代われるのか

無責任な方言としないためには、自分が理解したい苦しみを抱く人の苦しみを取って代わる必要があります。もしかしたら肉体的なことかもしれませんし、物理的なものではない可能性だってあります。

とにかく、何かしらの痛みや苦しみを取って代われることが条件となりますが、ボクはそれができる人なんていると思ってませんし、実際にいないでしょう。取って代わることができないってことは、その当事者が認識し、受け止め、対処するしかないことになります。

人によっては、あまりの苦しさが嫌になり、呼吸をすることすら苦しくなることもあるかもしれませんし、そんな姿の当事者を見るのがツラくて仕方のない状況になってしまうかもしれません。

でも、その状況や環境を取って代わる、もしくは、すべてを背負込めるだけの力や気持ちがないのに、すでにその人なりに頑張っている、努力をしているのにもかかわらず、「がんばれ」と投げかけることは応援していることになるのでしょうか。

だからボクは「がんばれ」と言えない

そう考えていることもあって、ボクは人にたやすく「がんばれ」と声をかけることができません。その人はすでにがんばっているし、自分が望んでいる結果に向けて必死になっているのです。

必死に努力を重ね、できることを最大限に取り組んでいるのにもかかわらず、結果に結びつかないこともあるでしょうが、ボクが結果を後押しできるような、結果に直結するような力なんて持ち合わせていません。

相談をされたら真剣に話を伺いますし、応えられる依頼には応えるようにしたいと考えていますが、どうあっても力になれない、応えることのできないこともボクみたいな小さな人間にはたくさん生じてしまいます。

自分の無力さは常日頃から実感しているのですが、同時に、微細な力かもしれないけれど拡張するためにはどうしたら良いのか、どう振る舞ったら良いのかを考えるようにしています。

ぜんぜん足りませんし、拡張できている気もしませんが、何よりも自分自身に期待をしすぎないように注意もしています。ボクにできることは本当に小さなことだと思いますし、もしかしたら、それも勘違いかもしれません。

ボクは「がんばれ」なんて無責任に投げかけることはできませんし、したくありません。それでも、結構痛い思いはしてきていますし、痛い存在でもあるので、少しぐらいは他人の痛みについての想像力はある方かもしれません。

「がんばれ」って応援することはできないかもしれませんが、「そうか」と理解と想像をすることぐらいはできそうです。些細なことかもしれませんが、何かしらの行動や行為に結び付けて手伝うことぐらいはできるかもしれません。

少しぐらいは誰かの気が晴れることをしたいとは思うのです。思うだけで、実際には役に立たないかもしれませんが、少しだけ。お手伝いぐらいならできる、とは思うのです。はい。

ではでは。

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